品川大膳 山中鹿之助と一騎打ち | 墓守たちが夢のあと

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品川大膳の墓
 
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現地説明板
 
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川中島一騎討之碑
 
 品川大膳(将員)は、石見国領主益田藤兼の家臣で弓の名手として知られる武将でした。
 益田氏は毛利元就が永禄8年(1565)、尼子氏を滅ぼすため、その居城である月山富田城を攻撃した際、毛利側に付き従い参戦します。しかし、難攻不落の城と呼ばれた月山富田城は容易に落ちることはなく戦いは長引きます。
 大膳は事態を打開しようと、尼子側で武勇に優れる武将として知られた山中鹿之助へ一騎打ちを申し込みました。
 鹿之助もこの申し入れを承諾し、永禄8年9月(1565年9月)に城下にある富田川の中州(川中島)で、毛利軍・尼子軍の兵が川を挟んで対峙する中、一騎打ちが行われました。
 結果は鹿之助の勝利で終わりますが、経緯は史料によって異なっています。「雲陽軍実記」(天正8年)では両者が川へ飛び込み中州へ向かいますが、弓の名手である大膳が弓を持って戦おうとしたため、飛び道具は卑怯と尼子側の武将・秋上宗信が弓で大膳の弓の弦を切り落としたため太刀での勝負となり鹿之助が勝利したと描かれています。
 一方、「陰徳太平記」(元禄8年成立)では、当初、双方が得意の武具を持って戦うと約束していたにも関わらず弓を射ようとしていた大膳に対し、鹿之助の後をついてきた秋上宗信が弓矢で弦を切り落とし妨害。太刀での戦いでも大膳が優位にたちますが、見かねた秋上が切りかかったために形勢が逆転し鹿之助の勝利に終わったと記されています。
 それぞれの立場で記されているため史実は分かりませんが、大膳は一騎打ちの場の近くに葬られています。
 現在の墓は明治時代に建立されたもので、題字は長州藩出身の山縣有朋によるものです。
 
島根県安来市広瀬町広瀬
撮影日::2013.5.11