尾崎紅葉 | 墓守たちが夢のあと

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尾崎紅葉の墓

 

尾崎紅葉

 

 

 明治時代の小説家・尾崎紅葉は現在青山霊園で眠っています。
 紅葉は慶応3年(1868)に江戸の芝中門前町(現在の浜松町)で「太鼓持ち」で「根付師」の尾崎谷斎の長男として生まれます。谷斎は9代目市川團十郎も注文に来るという有名な「根付師」でした。しかし、紅葉は父が「太鼓持ち」をしていた事が恥ずかしく、親しい友人にもあまり父の事を語らなかったといいます。
 明治18年(1885)に山田美妙らと「硯友社」を結成。機関誌「我楽多文庫」を創刊し、「二人比丘尼色懺悔」で文壇デビューします。以降、数々の小説を発表し明治文壇の重鎮として泉鏡花ら多くの弟子を育てました。
 明治30年に読売新聞で連載された「金色夜叉」は明治時代を代表する小説で、昭和以降、度々映画やテレビドラマ化されていますが、小説としては紅葉の病死により未完のまま終わっています。
 「金色夜叉」にはモデルがいたと言われています。主人公・間貫一のモデルは紅葉の親友で児童文学者の巖谷小波だったと考えられています。彼には芝増上寺の紅葉山にあった高級料亭「紅葉館」(跡地に東京タワーが建設される。)で働いていた須磨という恋人がいましたが、小波が仕事で2年間東京を離れている間に他の男に横取りされます。小波はそれほど気にしていませんでしたが、その話を聞いた紅葉が怒って「紅葉館」に乗り込み須磨を足蹴にしたといいます。熱海の海岸の有名なシーンはそれがヒントになったそうです。
 ちなみに、「尾崎紅葉」のペンネームも芝増上寺の紅葉山からとったと言われています。
 明治36年に紅葉は胃がんのために35歳で亡くなりますが、墓石の揮毫は巖谷小波の父親で明治三大書家の一人といわれた巌谷一六によるものです。
 また、紅葉の墓の隣りには父・尾崎谷斎の碑が建立されていました。

墓所:東京都港区南青山 青山霊園 1-ロ10-14  地図
撮影:2012.5.2