さっそく、内田樹さんの著書『態度が悪くてすみません-内なる「他者」との出会い』(角川oneテーマ21新書)から、僕の気に入ったところを、抜粋して紹介したいと思います。


「しあわせ考」という題の中で語られた一部を、紹介します。


>>・・・「しあわせ」の古義に含まれていて現代語義から失われたものがあるとすれば、それは「しあわせ」が前提とした手間ひまであろう。

「しあわせ」は「しあわす」人がいてはじめてもたらされる。「しあわす」という主体的意志と行動ぬきに「しあわせ」は到来しない。


現代人にとって「しあわせ」は当人の努力や決意とかかわりなしに、「あちら」から来るものなのである。それは私の主体的関与ぬきにたまたま天から降ってきたものであるから、長くは続かない。それは来たときと同じように不意に立ち去るだろう。私たちはそんなふうに考えている。


「しあわせがよい」のが偶然的である以上、仮に「しあわせが悪い」状態にあっても、私たちはそれを自分の責任であるとは考えない。それはたぶん私ではない誰かの責任なのだ。

そんなふうにして、私たちは「しあわす」という行為が存在するということを忘れた。


今、「しあわせ」は「うざい」とか「きもい」とか「むかつく」と同じように、不意に私たちに取り憑く得体の知れない情緒的な飛来物のようなものとして観念されている。だから、「うざい」以下の否定的形容辞が示す心的状態もまた、その人自身の努力と決意の産物である可能性には決して思い至らないのである。


特に最後の文が衝撃的だった。自分なりの解説をしようと思ったけど、意味を取りこぼしそうなので、あえて自分の言葉で言い換えないでおこうと思う。


これとよく似た言葉で、「なぜ、日本人はしあわせになろうとしないんだろう」という黒澤明監督の言葉がある。おそらくこれは同じことを語っているんだろうと思う。