➃西国街道(2―廿日市―大野浦) | 日本全国ぶらり街道一人旅

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タイトルを変更しました、寄る年波には勝てず長い距離を走れなくなってしまったため、もうマラソン大会に出られるような走りは出来なくなてしまった、近頃は走ることもままならずもっぱらウオーク&ジョグである、ただ街道の旅はやりたいのでタイトルを変更しました

 

  

雨は一向に止む気配がない、ふと見ると廿日市駅の外れの方にタクシーが泊まっている

考えた、この先で四朗峠を越えねならないが、歩道がないと言う話をネットで調べて聞いていた

決断は早い、タクシーに乗って四朗峠を越える事にした、運転手さんにこの場所で写真を撮りたいので停まって下さいとお願いをして、「宮内一里塚跡」、「津和野岐れ」交差点道路向かいにある

「夜泣き石」を写真に収め、四朗峠へ

 

やがて四朗峠を越えるが、確かに歩道がなくここを徒歩で越えるのは危険すぎると感じた

途中にあるという「宮内 大野村境」の碑は見落とした、四朗峠とは、大野村を太郎

次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が開墾し、それぞれが開墾したり住んだり

した所に地名などを残した、四郎峠の名は、中山に住んだ四郎に由来していると伝わる

   

  

やがて「疣観音堂」と「今川貞世歌碑」のある所にやって来た、雨も止んできたので、ここで

タクシーを降り再び歩く事にした、歌碑の「今川貞世」とは何者ぞ、鎌倉時代後期から南北朝・

室町時代の武将、足利義満に九州探題に任ぜられ下る途中、ここ中山を通った時の歌で

「とにかくに 知らぬ命を 思ふかな 我が身いそじに 大野中山」、明日をも知れないはかない

命のことをあれこれ思うことだ

 

「疣観音堂」を右折する、山間の静かな道になった、ようやく道が旧道らしくなった、暫らく行くと

こんな山の中なのに「安芸野球村塾」の看板が目に入る、野球を楽しくもっと心から好きになって

もらいたいが根本にある個人指導の野球塾だそうだ、道理で広島県は野球が盛んで強いわけだ

 

  

その先左に「史跡一里塚跡」の碑がある、中山一里塚跡である。その先「十郎原」と書いた

案内板があり「伝説「大野五郎」の五兄弟のうち、末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名が

残っています」と書いてあった

 

    

高見川を青い橋で渡る、その先は民家の裏を通る、通って良いのかどうか分からないが入って行く

消防ホース格納箱が目印、道は気持ちの良い山道となる

 

  

大野西国街道の案内板に従い、どんどん進んで行く

 

  

その先に「大野次郎宅跡」がある、推古天皇の時代、勅命で太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という

五人の兄弟が大野村に降り、田畑を開いて農業を始めた、総領の次郎は土井を開墾したとあり

ここに屋敷があった

 

  

高畑に入ると、左手に「古代山陽道の高庭駅家跡・濃唹(のう)駅家跡」がある、古代山陽道には

約16k毎に役人の宿泊や、乗継ぎ用の馬を備えておく「駅屋(うまや)」が置かれた、平安時代以後

「濃唹駅」に変ったという、山上憶良の歌碑も建つ

 

  

高畑東貝塚跡、この辺りの山道はさほどの勾配もなく、落ち葉の感触が心地よい

 

  

高畑貝塚址、高畑溜池、陣馬址などを見て行く

 

  

道はやがて新幹線の高架下に出て来て、大野浦の集落に入る

 

  

大野浦駅の左横に「大野浦一里塚跡」とここにも「今川貞世歌碑」がある「おおのうらを これかと

とえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ」で、大野浦の駅名はこの歌からつけられた