⑰奥の細道(木之本-不破の関所)-1 | 日本全国ぶらり街道一人旅

日本全国ぶらり街道一人旅

タイトルを変更しました、寄る年波には勝てず長い距離を走れなくなってしまったため、もうマラソン大会に出られるような走りは出来なくなてしまった、近頃は走ることもままならずもっぱらウオーク&ジョグである、ただ街道の旅はやりたいのでタイトルを変更しました

第17回目の奥の細道、いよいよ最終章、これで終わりかと思うと感慨もひとしお

沸き立つ感情を抑えられない

 

天気予報は連日寒波到来のニュースが流れ大雪予報、何とか年内に終わらせたい

這ってでも駆け抜けるつもりで行って来た、果たして結末はいかに~・・・

 

12月17日、午前6時36分、東京発、ひかり361号にて出発、関東から東海に掛けては

目の覚めるような快晴

 

本当に寒波が来て、大雪になるのかと疑うほどの良い天気、ほどなく名古屋

天気は名古屋を境に変わった、どんよりとした曇り空に変わる

 

まだこの辺りで積雪は見られない、岐阜羽島の手前から景色は銀世界へと変わる

やっぱり雪か~、道路状況が気になる所、間もなく米原に到着

 

外を見ると雪は降ってはいないが、積もっているのが分かる、米原から北陸本線に

乗り換え、前回ゴールの木之本へ向かう

 

車窓からは近江の雪景色が広がり、木之本に近づくほどに積雪の量が増えて行く

道路状況がとても心配である、走れるのか、こればかりが脳裏をよぎる

 

9時41分、木ノ本に到着、2週間前に敦賀から来た時の景色とは一変して積雪が凄い

駅構内で着替えて、いよいよ奥の細道、最終章の出発である

 

  

駅から左手に向かい、風情のある木之本の町をゆっくりと走り始める、道路は雪かきが

されており、走るのには大丈夫なようだ

 

問題は365号線がどれだけ走れるかだ、間もなく木之本の町を外れ、北国脇街道365号線に出た

この辺り歩道はあるのだが雪掻きがされていない

 

雪の上の歩道は走れないので車道を走る、幸に道路は乾いていて、車の水しぶきを浴びる事は

ないので助かる

 

今日の天気、全般には曇りだが、時々太陽が顔を出しそんなに寒くない、今日は寒くなる事を

予想していたので服装は重装備

 

上はロングTシャツ2枚重ね、その上からスポーツジャケットを羽織り下はロングスパッツ

その上からトレパン着用と、万全の寒さ対策を施して来た

 

今の所走ると暑いくらい、風もほとんどなく穏やかで、何やら拍子抜けの感じ

ただトラックがバンバン走る365号線に、歩道の無い所が多い

 

歩道があっても積雪しているので走れず車道を走る、これが恐い、路肩に雪があるため

車道を走る羽目になる、走っていて申し訳ないと思うが

 

運転手さんにも良い人と悪い人と云うか、人格の差が出る、私を避けるように

大きく迂回してくれる車が多い中、体に触れんばかりにすれすれに通る車がいたり

 

さらには、どけとばかりにクラクションをならして脅かす車、そんな時は仕方なく

路肩の雪の上でじっと待ち、車をやり過ごす、今日は雪より車との戦いになりそうだ

 

          雪国の車道走りて身の縮み みのさん

 

浅井町という所に入ってきた、アサイではなくアザイと読むそうだ、この町はちょっとした町だ

歩道も雪掻きがされていて、とても走りやすい

 

町に入る少し手前の左手に、浅井長政が居城、小谷城跡が見えていた、近江を制するものは

天下を制すと言われ、姉川合戦に見られるように浅井の地は天下取りの舞台となった

 

浅井町の名前の由来となる戦国時代の武将、浅井長政、の領地の核となったのが「小谷城」

姉川の戦いで織田信長の総攻撃にあい落城、現在はその跡を残すのみとなっている

 

  

11時59分、その姉川にやってきた、掛かる橋は野村橋、遠くに「姉川古戦場跡」の看板が

見える、土手伝いに行けそうなのだが積雪が多くて近寄れない、やむなく遠くから写真を

撮ったが余りよく写っていない

 

戦いが行われたであろう河原に目を写す、戦場は銀世界、駿河の今川、美濃の斉藤を撃破した

信長は、足利義昭を奉じて上洛を果たした

 

天下統一を夢見る信長は、越前国の朝倉氏に対し上洛を要求したが、朝倉氏はそれを拒んだ

業を煮やした信長は越前へ侵攻する

 

北近江を治める浅井長政は、信長の妹の、お市の方の婿であり、当然協力するものと思って

いたがあにはからんや

 

長政は信長を裏切り信長を攻撃した、挟撃された信長は、先に私も行った敦賀の金ヶ崎城に

おいて秀吉をしんがりにして、決死の退却をする

 

2ヵ月後、体勢を立直した信長は、織田・徳川連合軍3万を持って反攻にでた、一方の朝倉浅井

連合軍も1万5千を持って姉川を挟んで対峙し戦いが始まった

 

兵力の差をものともせず、朝倉・浅井軍は信長13段備えの、11段まで破るも、徳川家康の

部隊が応援に駆けつけ、これを撃破、織田・徳川連合軍の勝利となった

 

この戦いにより、姉川は血に染まり現在でも”血原”という地名が残されている

お市はどうしたか、姉川の戦いの3年後、秀吉が小谷城を攻め落とす

 

秀吉はお市に恋をしていた、出来ればお市を助けたいと思っていた、それは信長も同じ

それ以上に長政も同じ、お市を救うべくお市と子供たちを信長に引き渡そうとした

 

しかし、お市は自分だけが助かる事を良しとしなかった、長政が死ぬなら自分も一緒にと

懇願した、長政はまだ小さい子供たちは母親を必要としている

 

子供たちのためにも生きて欲しいと説得した、お市は生きる決心をし三人の女の子を連れ

小谷城を出る、長男の万福丸は生きる事を許されず、まだ8歳だと言うのに串刺しの刑に

処せられた

 

その後、お市は柴田勝家と再婚し三人の娘も連れて行く、信長の死後、勝家と秀吉は

後継争いをし賤ヶ岳の合戦で秀吉が勝利した

 

お市は勝家とともに自害してしまった、お市の三人の娘は秀吉に保護され、長女は秀吉の

側室淀君、三女お江は徳川家康の三男で2代将軍となる秀忠に嫁ぐ

 

そして次女のお初は、京極高次に嫁ぎ、戦国一の美女、信長の妹、お市、その数奇な

運命に姉川古戦場を見て深く考えさせられる

 

          ああ無情生け贄となる雪の河 みのさん

 

12時59分、高番、真直ぐ365号線を行けば関ヶ原まで後10kほどだが、この交差点を

右に曲がり県道551号線を行き、中山道の柏原宿に行きたい

 

この道は国道と違い車もほとんど通らず快適に走れる、少し曇ってきた、前方に山が

見える、あの山を越えるのだろうか、山は時雨れているように見える

 

1時36分、東海道線のガードを潜って柏原の町に入ってきた、入った途端に激しく雪が

降ってきた、どこかの軒先で雨宿りならぬ雪宿りをするのに都合の良い所はないか

探していたら、お宮があった

 

一先ずそこへ駆け込み、雪のやむのを待つ、一向にやみそうにない、中山道、柏原宿

風情のある街並みを見たかった

 

少し米原方面に向かってJR柏原駅周辺まで戻らねば、本格的な柏原宿の面影には

出会えない、柏原宿の名物といえば、伊吹もぐさ、現在唯一残っていると言われる

「伊吹堂亀屋左京商店」を見たいと思ったが、これも叶わず

 

しばらく雪の止むのを待ったが、止む気配がない、じっとしていると寒くてしょうがないので

見学は諦め、関ヶ原に向かう、旧中山道を行く、10分ほど走ったら雪が止んできたそして

突き当る、右には並行して21号線が走っている

 

左を見ると踏切を渡り山に登るような感じになっている、多分左が中山道なのだろう

雪が積もっているのが見えたので、登れないと判断し右に曲がり21号線を行く

 

ここで合羽を着ている事が効を奏した、21号線は交通量が激しく、水しぶき泥しぶきの

洗礼を浴びる、10分ほど走って再び左に曲がり旧中山道へ入る

 

  

こちらはほとんど車が通らないので、ほっと一息つける、丁度良いところに出たようだ

直ぐ県境、わずか40cmほどの溝が境界線で道標に向かって右が滋賀県、左が岐阜県になる

いよいよ奥の細道、近江から美濃に入った、走り旅も最終段階に入ったようだ

 

この県境は昔から寝物語の里として言い伝えがあり、その石碑があった、中山道を行き来する

旅人たちが、それぞれの宿屋に休みながら壁ごしに隣国の宿屋の人と話し合えたというのが

寝物語りの謂れだとされている、またこの寝物語の里には源義経が源頼朝から追討を受けて

その行方をくらまし東国に逃れた時そのあとを尋ねてきた家臣の江田源蔵の寝物語を義経の室

静御前が隣家の宿で聞き再会し二人で旅立ちをしたという話も伝えられている

 

       

そして直ぐそばに「奥の細道芭蕉道」の大きな石碑と、「野ざらし芭蕉道」の小さな石碑が

立っている、芭蕉は「奥の細道」、「野ざらし紀行」でここを通ったという

 

2時33分「車返しの坂」遠い昔都を守る重要な場所として、関ヶ原町松尾に「不破の関所」が

あった、その後関所としての必要性がなくなり、関所は荒れ放題に荒れ果ててしまった

 

「不破の関所の板びさし」といえ、いえば荒れ果てたものを呼ぶ言葉として都にまで

知れるようになった、そんな時代に、二条良基、という大臣が、不破の関所の板びさしから

もれる月を見てみたいものだと思い、都からやってくることになった

 

ところがそれを聞いた地元の人たちが、大臣がおいでになるのに見苦しいものを見せては

もうしわけないと思い、急いで屋根のふきかえをした

 

良基は都から車に乗ってこの坂まできたとき、不破の関所のいたびさしが修理されたことを知り

良基はせっかく荒れ果てた板びさしを見にきたのに

 

なくなっているのにがっかりして「さてさて、心ないことをしたものだ」と言ってこの坂から

都に引き返してしまった、以後この坂を、「車返しの坂」、と呼ぶようになった