人生を振り返る~幼少期と両親のこと~ | 一寸先は光~先が見えないからこそ人生は楽しい~

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人生はあらがいさえしなければ、自然と幸せで豊かな方へ進んでいく。

こんにちは。namiです。今回から人生振り返りシリーズを書こうと思います。

前回、自己紹介を書いたら浄化というか、清々しい気持ちになったのです。やはり心で思っていたことを言葉にすると違いますね😃

自分の過去、、、私がずっと向き合うことを避けて来たことです。なぜなら苦しくて、過去の自分を認めたくないから。
でも、これなしには先に進めない、自分を見くびったままになってしまう。だから書いて成仏させてあげようと思います。


☆全てを1人占めしたかった幼少期
私は4人姉妹、1つ上の姉、2つ下の妹、4つ下の妹がいる。だから何でも分けなくてはならなかった。おやつのポテトチップスだって、開けたらソッコー4人で手を出して食べる。あっという間だ。おかげで私達姉妹は早食いだ。

1人で全部食べたい、一人っ子がうらやましくてしかたなかった。

覚えているのは七五三の時、私は着物を着せてもらい、千歳飴の入った袋を持って写真を撮った。終わって、千歳飴を舐めていると母が妹にも舐めさせてやれと言う。千歳飴は私の分しかなかった。

私はあげるのが嫌で嫌で、舐めてた千歳飴を地面になげつけた!母はそれを拾って水道で洗って妹にあげていた(昭和56年頃の話です)

あ~、全部一人占めしたい、おやつも親の愛情もそんなふうに思っていた。


☆両親のこと
両親共に戦後まもなくの生まれで、何もなく貧しかったのだろう。ご飯のおかずに文句をいうとこっぴどく怒られた。
父は公務員で会社でいろいろあるらしく、いつもムスッとしていた。母は中学を卒業してから7年間、東京の会社の寮に住み込みで掃除や食事を作る家政婦をしていた。父と結婚するまで。

よく4姉妹というと「あら、じゃぁ、お父さん肩身がせまいわねぇ。」と、言われた。
私はそれを言われると無性に腹が立ち、心の中で(とんでもないですよ!父はねぇ、母を「でぶ」と呼んで毎日背中を流させ、私達のことを怒るときは「バカ奴ら」と呼び、風呂からでたら私達の前で裸で涼んでるような
人です)と、叫んでいた。テレビのチャンネルは独占し、俺の金で飯くってんだかんな、と言う父と私はなんどもやりあった。
母を守ってやりたかった。母は父のいない時に父の文句を良く言っていた。

私は両親に別れてほしくなかった。だから毎晩、両親が離婚しないように祈り、2人の機嫌の良い時は、オーバーに喜んだ。いつもこんなだったら良いねぇって。

そんな両親だけど、毎年夏休みには昼間は、西武園ゆうえんち、夜は西武球場へナイターを観に連れていってくれた。
父は西武の本拠地が九州にあった西鉄時代からのファンだった。
子供の時は、ゆうえんちが楽しみでナイターは眠くて真剣に観ていなかったが、今ではファンクラブに入るほどの西武ファンになった。父
を嫌いながら、父の好きなものを好きになってる自分。くやしいけど仕方ない。

また、父はたまにこっそり小遣いをくれた。学生時代、「nami、金やるから」と言って、私だけでなく妹にも。

このような両親に育てられて、私には2つの思いが芽生える。
1つは、男に食わせて(養って)もらうのだけは嫌だ(父が恩着せがましかったから)

もう1つは、大人になったら、両親にたくさんお金をいれてあげたい。

この2つを強く決心した。

☆45歳の私から、幼少期の私へ
あの頃は、何でも分けなきゃならないのが辛かったねぇ、うん、1人で全部食べたかっもん。
買い物だって、お母さんが自転車しか乗れなかったから、連れていってもらえるのは4人の内、2人。自分が連れていってもらえないときは、走って追いかけたね(笑)
でも、今は4人姉妹に大感謝だ、姉と妹2人と姉妹になれて本当に良かった。お母さん、ありがとうございます。(お父さんもありがとう)

お読みくださり、ありがとうございます。