寿命まで生きるとして健康的なまま老衰していくとしたら人生は80歳くらいまで続くとなると

明日や明後日ぼーっとしていようが

大抵何とかなってしまい

その結果で後悔が生まれると思っている。



物心がついて自分で選択できるようになり

責任を持ち通念や意味を悟りながら

大体つまづいたり酷い過ちを犯して

取り返しがつかないことになったりした時に

多分それは永遠に引きずることになる。

あの時こうすればよかった

もっとこうなりたかった

多分死ぬ人は誰もが抱えているだろうし

後悔ない人はいない。



俺としてはいつしんでも別に構わなくて

生きてること自体が明日生きている自分が後悔していると確信してて

それは俺が過去の後悔によって作られたものであるとも思えている。

時間は戻ってくれないから

過去は断定しているから

本当に小さな決断や選択を間違えただけでも

永遠にそれがトラウマのように脳に刻まれていることだってある。



後悔による希死念慮が強いから

結果的に死んでもむしろ後悔がないみたいな感覚で生きてると

別に今生き続けていることに意味なんてまるで見出すことはできないけど

この生きる後悔が生き続けるだけ

俺の死を煽ってくる。



25歳の中で死ぬつもりなんだけど

それはある種の自己防衛でもあり

また最近になって多分これは無自覚に俺が俺の生きるモチベーションをなんとか湧き出させるための

無意識な気持ちに近い気もしてきた。



生きることが後悔になっている中で

時間を指定してそれまでにどう証明できるか

という制定。

俺が間違いじゃなかった、

自分の意思の答え合わせは

俺が死ぬ他ないと思う。



老衰するまでの時間があれば

まだいいやと思いながら

うだうだとのたまい

無駄な後悔を増やして結局は全てを満足出来なかったと言い出す。

生きる時間が多いだけ

できる可能性も時間も増えるのだから

満たす容器が大きくなるのは当たり前で

その可能性に対して

現状の自分が長い年月をかけて満たしていく

心の在り方や余裕などないのだ。



年月があれば余裕が生まれることはあっても

その余裕をふやせる方法をひとりで見出して実行できるとは思えない。

人と一緒にどうにか手助けしてもらう年齢でもなければ

長い年月をかけて支えてもらうことも億劫であり

この世にそれほど尊大な人間がいるとも思えない経験だらけで

俺は自動的にそんなことを否定する。



ここで死ぬと制定した時

いかにして残りの期間を生きるかを考える。

社会通念上で言えばそういう思考は

自分が老いてきた時や、命の危機を感じてきた時などの死を前提にした覚悟を決めるときで

それはある種の俺の思考と合致する。

俺はそれをただ早くやろうとしているだけ。



期間が短ければ自覚は早いし

俺はそれを望んでいる。

生きる後悔が俺をそうしているが

そのたった残りの数年を如何にして自分が生きてきた中で死を望んでいるか、

今までの経験と苦難

自分の守衛のため

そして人と自分の違いに終止符を打つ必要があると思ったことが大きい。



俺は経験論で理論武装するから

主観の観点が多いが

常々それは立ち位置やどの程度の値札を貼られている人間の位であるかではっきり変わることが多い。

経験をしていない人間にとってわかるわけもないことを前提とした理屈や心理で生きているし

当然人にわかってもらうには

観点も感受性も違う。



現状の社会として死を肯定することを勧めるのは

元々無い命の価値がもっと低くなっていく社会になるから

日本が安楽死を肯定しない社会であるのは

愚直であると思うが

俺としては社会通念とか一般常識とか

命の尊厳とか人生の価値とか

いかんせんそういう次元の話も興味無い。

俺が俺としてやりたいようにやって

それが生きることであろうが死ぬことであろうが

俺が望んだ以上はなんでもいい。

それ以上も以下もない。



そしてあくまで俺からしたらこの先の人生は

ただのオマケみたいな感覚で

既に人生には大いに満足していて

俺として見たいものや人生がどういうものか

生きることがどういうものかという証明を付けられる材料が沢山揃ってくれている。

それ故に死を願っている現状では

いくらこの先に25であろうが30であろうが

伸ばした人生に対して特別な気持ちや期待もない。

精々もう少し嫌な目にあって生きることが嫌になることを強く抱く経験をしてより自分が死ぬことを望むようになるくらいだろうとしか思ってない。



完成系は自殺であり

死ねば終わる。

死ななきゃ終わらない。

それだけ。



そして、その制定したオマケである残りも

さほど時間が無い。

その中で悔いのないような時間を多く作ろうと思った時に

俺らは少しでも濃密になるようにしっかりと基盤を持って意思を貫こうと生きるはずで

俺はその一貫させた意思の中で最後まで生きて

最後には散りたい。

多分その時には

生きるとか死ぬとか

幸せとか不幸とか

散々縛られて泣いて足掻いて嘲て

壊れた人生や自分自身なんて忘れられるかな

って思う。



そしてその最後に抱く時の気持ちというのは

俺が手にしたくても手に入らなかった

普通の人と一緒の気持ちで

普通になれる手段としても

俺はこういう形で終わらせないと

普通になれない。



人生や人としての普通は諦めてるけど

最後に結果として普通になれなくても

せめてそれを追い続けて死んでいきたい。

色んな意思が思惑が俺にはあって

重なって重なって大変だよ。

本当に骨が折れる。

満足して死ねるように生きる日々は

普通の人と変わらないはずなのにな。