フェミニズムにしても、ビーガンにしても、LGBTQにしても、社会的に左派が提唱する自由や権利というのは
社会的には価値がないので、言ってしまえばボランティアと同じ。
権利を渡すためにリソースを割いて犠牲や我慢を増やすことは社会になんら生産性も与えなければ、存続的な問題でダメージにしかならない。
それでいて、彼らが満足することによって出てくる結果は2度目3度目の要求である。
自由とは、そういられる配慮や豊かさが前提にあるが、少子高齢化で弱体化していく日本にマイノリティに割く時間もリソースも本当はない。
豊かさがあって権利が生まれるだけで、
そのために生きるという社会的な目的は個人が存在している段階で発生する。
高度経済成長を遂げて、一気に発展してきた日本も
元来の右的思考であったからこその賜物だったと思う。
人口減少に伴って女性の権利だのと社会進出させた結果、現代フェミニズムの加速に繋がって
今や日常に見えない権利が発生することで起きる冤罪や、価値観の違いにより出会いを求めない人も増えた。
政治にしても、高齢者用の政治施策は変わらず
社会的に必要な部分を有権者の得票が多い団塊ジュニア用の発展にリソースをさくばかりに
何年経っても実体経済は発展しない。
個々の企業などが業績を上げても、負担率的には変わらないのも事実でしかなく、
意思決定権ですら奪って無理やり生かす尊厳すら抜かれた人生を負わされてまで、結果的に医療と福祉を食いつぶし、その分野が重要視され必要とされているのに可処分所得が十分に増えないわけでしょう。
安楽死というのを考えたり、尊厳死というのを推進させるべきと思っていたが、生きる死ぬという意思決定権を個人に委ねるほど
自由に生きられる余裕がない社会だろう。
日本には社会的に人間個人にその選択をさせる価値はない。認められていないために、社会から逸脱した形で終わらすしかないだろうということ。
生きるということは自動的に社会に属することになる。
そしてそのために意味や理由を持たない社会に対する生産性を目的として何かを捧げることが必須になる。
社会的には価値があれば生きることを許容するがそれがない場合には排他的になる傾向があるために
自殺者が減らないのだと思う。
つまり社会で生きるという時点で、右的に自己犠牲を重ねて身を削る蟻のように生きる必要がある。
社会は存続のためにあるだけで、社会のために生きても人のためにはならない。
そこに社会があって身を寄せ合う理由くらいが作りやすいことに価値があるだけで、それ以外はどうでもいいのだ。
そのため、そもそも社会的に権利を社会に要求することで社会が変わるべきというふうに責任問題に発展しても無意味である。
根本的に社会は発展のための犠牲を厭わずやってきて出来上がった歴史や文化の上で行っているだけで
そこに人のためとか特定になにかのために生きていない。
警察も政治家も自衛隊も人のために生きていない。
そういうシステムで動くことに個人が勝手に解釈的に何かのためにという理由を後付けさせているからだ。
政治家が人のために生きていたら、世間がここまで貧しくなることもないし、警察や自衛隊が世のために生きていたら汚職なんてないだろう。
それを個人や組織に提訴し、変化を求めてもお門違いである。
もう全て組み込まれた歯車の上で軌道に乗って全員が生きていることに何を言おうと無理なのだから。
全てが抜本的に破壊されシステムごと壊されないと何をしようと無意味であるということ。
日本はずっとこのまま貧しく人手不足のまま終わっていく。
みんな他人事のように思っている。
自分だけの問題だと思っていて、あらゆることに関心もなければ自分のことじゃなければ看過するけど、誰もその責任を取りたがらないツケは負債となってやがて一気にのしかかるだろう。
Z世代なんかはこの世の中の世情や無感情で薄情な生活に揉まれて無気力そうだし、意思決定権も剥ぎ取られ、社会的ではない部分で社会のレールを外れる生き方をしている人も増えてきた。
定職もつかずにすぐに辞め、
一人を好み、人を愛さず、自分のプライドもないような生き方を平気で行うことも厭わない。
日本はもう昔ながらの日本人気質や大和魂的なものは存在しない。
このまま暗黒に落ち着いた時に、如何に情けのない国に成り代わったか俯瞰できる時代も近いだろうなと思う。
そうして築き上げた社会が価値があるかどうか、
システムと感情は分別して初めて生きていける。