死ぬ気でやるなんて無意味だと思っている。

死ぬ気でやる人間は死ぬために生きてるのかというとそれは違うと言うだろうし

実際そういうやつを見てきた。

生きるために死を犠牲にする奴はいないよ。



実際安心して最後を迎えるためには

死ぬまでに満足できるように何かしら生きている観点から

俺は死ぬために生きてるんだろうと認識してるけど

大多数の人間にとって焦点は幸せとかそういった幸福度のためであり

彼らは気持ちとしては死ぬためでは無いと思っているが

死んだ後に後悔しないためとか

いつ死んでもいいようにとか

結局のところどう死ぬためにどうするかっていう結論で

生きるためでは無い。



生きるために死ぬは意味不明だが

人生や自分のために死ぬという言い換えなら

俺はそっちを選びたいような気持ちがある。

死ぬ行為も自分のためになる人はいる。

社会的に、個人的に、義務的に、立場的に

それは様々だが

自分のために死ぬ必要があるという思考が自分として成り立つケースは非常に特殊でかつ一般的に不可解である。

だから自殺を人は肯定しない。



俺は死ぬのも自分のためだから

人生の最後として満足した死を願いたい。

死ぬ気でやり通すのはその満足のためであるなら意味として綺麗だが

人を不羈させて動かすための言葉としてしか使わないくらいに

適当で粗末な言葉としてしか使われない。



生きてるから生きてることが中心に見えるようになってるだけで

死ぬ事が最終的な中心なわけで

円の中心が死なら外側から狭めていくのが人生だと思っている。

死を犠牲にする人間なんてのは愚か者です。

本当は人と死というのは近しい概念なのに

人は死を遠ざける。



全員殺す気でやるという気持ちで生きてます。

優しかろうと、腐っていようと

全員一律に一緒。

俺にとっては平等に価値がない。

別に実際他人がどうであれどうでもいいけど

一律に一緒な人はいないってこと。



死ぬ気でやれって言うやつはてめえがやれって話。

能力、基準、思考、価値観、生き方、境遇、環境

人なんてみんな違う。

そんな違う人達が、死ぬような思いをして生きて

利他的に能動したとして

全てがいい結果、いい思い、いい気持ちになるわけが無い。

それは言う側も行う側も一緒で

あまりにも適当なんですよ。



死ぬ気でやるなら多少の努力程度よりは可能性は高いにしてもあまりにも具体性がない。

そのくせ他人任せ。それで他人事。他力本願に根性論で突き放してるだけ。



人って確約された能力ってのは平等にないんですよ。

どんな人間でも失敗をして

もがいて足掻いて

上手くいってることも急にできなくなることだって当たり前にある。

人が言う明日死ぬかもしれないという言葉と一緒で

何もかもが常にある訳じゃない。

確約されたエビデンスがそこにない。



人に死ぬ気でやれって言うなら

てめえが殺す気でやる方が筋道は通ってるし

俺は常にそうでした。

だから人に任せない。自分でやった方がその責任は自分であり

失敗や悪かったことは全部自分の行いのせいにできる。

確約がないということは信用がない。

信用がないと任せられないのは

任せて被害を被った時に「自分がやったわけじゃないのに」「なんで俺が」という苦痛に置き換わるから。



俺はそれが嫌だし、俺は誰一人として信用しないから全部自分でやる。

自分でやった結果なら善し悪しがどうであれ自己責任だし

よりよくするためには全力で生きる必要がある。



特にその人という信用がない存在との関わりは本当に殺す気でやってる。

目の前のやつがいつどうなるかわからない。

確証がないものに死ぬ気でやれなんて思えない。

だから俺がやる。

ほんとそれだけ。



最後に言えば死ぬ気でやれって言葉は

失敗した時に他人を悪くできる言葉なんですよ。

死という莫大で曖昧な概念をもって

重大な責任を無意識に与えて

できなかった時に死ぬ気でやれなかったという答えになる。

責める理由として簡単で合理的で

それを使う人というのは

責任を他人に押し付けるような雑魚です。

自分で処理する力もない、覚悟も、気持ちも、器も

なにもないやつがこぞって死を使って偉そうに言ってる。

当然言葉もテンプレートから選んできてるだけの

なんの考えもない上辺だけの弱い人間が使う言葉。



本当に辛い時はひとりです。

誰も助けてくれません。

だから自分で生きていく必要がある。

できるだけなにかのせいではなく

自分のせいであるという自負と

少しでも失敗の原因を潰す色々な試行錯誤を沢山して

自立しないといけない。

ひとりになったときに

誰かのせいでなんて言ってもなにもならないんです。



もちろん、他人によって不可抗力に傷つくことも多々ある部分からして

より自分の経験と自立した価値観をもって

常に思考をし続ける必要がある。



俺は確固たる自分自身の自立ができて

自分としての死ぬことの美学を捉えれたら

満足できると思ってるから

それが例え自殺でも美しいと思う。

正当化でも逃避でもなんでもなく

俺の理想と都合です。

殺す気で生きています。いつだって。