酔い潰れるという日が少し増えた気がする。
頭痛と一緒に朝を迎えることが多くなった。
自宅で飲酒をすると深酒をした訳でもないのに、酔って眠ってしまうことが多くなった。
これが歳を取ったことで起こるものなのだろうか。
その分慌てる朝も増えたことになる。
どうにかしなくてはいけない。
母親にも叱られた。
そんなわけで、僕は愛してやまないアルコールを少しの間休むことにしたのだった。
さようなら、1日の終わりに金色のアルコールを流し込む僕の幸せ。
そんなことを呟いたら後ろで兄に小さく笑われた。
恨めしそうに睨み返したら、笑っているんだけれど「ごめんね」って本気で謝る顔をしていた。
僕は飲めないことはとても寂しいけれど、兄にそんな顔をされる覚えはあまりない。
そういえば、このところの兄のこともよくわからない。
この時みたいに僕に対して本気で謝るような顔や言葉を口にする。
何故と問い返しても「別に」って別な笑顔を作って返すだけ。
なんだろうね、おかしいよね。
最近の僕も兄さんも、おかしいよね。
どうしちゃったんだろうね。
これは何かの始まりなの?
それとも続きなの?
まだ予兆な段階?
僕の脳の高齢化が著しく進んでしまうようななにかなのかな。
教えて兄さん。
あなたが夢のなかに出てくる回数も増えてきたよ。
兄さんが出てくる時は必ず、僕達はセックスをしている。
どうしてかな。
夢のなかの僕は、体が動かないくせにとてもうれしそうにしているんだ。
なんでかな。
そして兄さんはやっぱり「ごめん」て謝っているんだよ。
変だよね。
僕は喜んでいるのに、それを見てるくせにずっと謝り続けるんだ。
夢ってそういうものなのかな。
何度も何度も同じものを繰り返し見せてくる。
じゃあ、それらに本当に意味はないのだろうか。
1度きりなら意味がないものとして受け止められるし忘れられる。
けれど、毎晩のように同じような夢を見るって、スピリチュアルなものはあまり信じない僕だけれど、意味ぐらいはあるんじゃないかなって思っちゃうよね。
ねえ兄さん。
さすがにそんな夢を見たって言えないけれど、どうして僕達なんだろうね。
聞きたいけれど聞けない。
少しもどかしい。
でも、夢のなかの兄さんは、ちょっと狂気っぽいものを持っていて、それはそれでかっこいい。
伝えたいけど、伝えられない。
やっぱり少し、もどかしい。
仕事が終わった平日の夜。
研究室を出て大学から出ているバスに乗って駅まで行き、駅から自宅までのバスに乗り換える。
その時に駅である女性とばったり会った。
その女性というのがあの日合コンをした時にいたひとりだった。
2次会には行かなかったから、1次会のみでしか顔を合わせていないけれど、なんとなく記憶には残ってくれていたようだ。
2次会はカラオケに行ったと同じ研究室の同僚から聞いた。
けれど女性からの声は今日初めて聞くものだから、やれ僕がいなくてがっかりしただの、僕がいないから女子はみんなヤケクソで歌っただの、本人から暴露話を聞かされる羽目になった。
まあ、この女性の話し方がちょっと面白かったからいいけれど。
立ち話をしているうちにバスを何本も見送ってしまった。
そして女性はこの後時間があれば食事に行かないかと誘ってきた。
なんて大胆なひとだろう。
個人的に僕はこの女性に何も思うことはなかったから丁重にお断りしたけれど、連絡先を交換することにはなってしまった。
スマートフォンを握ったまま、バス停に並ぶ人たちをぼんやりと眺める。
出会いとは、こういうもののことを言うのだろうか。
こうして知り合った男女がふたりで会うことが続いて付き合うことになったり、結婚したりするのかな。
僕でさえこういうことが起きたのだから、兄はひっきりなしにあるんじゃないかなって思ってしまった。
自分に起きたことに、何故兄のことに置き換えて考える僕がいるのだろう。
おかしいな。
僕はどれだけ兄が好きなんだろう。
まあ、好きだけど。
兄さんは好きだ。
こなふうに好きとか考えてるから、セックスしちゃう夢とか見てしまうんじゃないだろうか。
しかも夢のなかでは多分僕が下だった。
つまり、女の子役。
『、』
バスが来たようだ。
列の最後に並ぼうと思った時だった。
『チャンミン!』
兄の声がした。
振り返ると、ロータリーに兄の車があって、手を出して振っている。
僕は慌てて兄の車の方へ走り、助手席に飛び込んだ。
『どうしたの、』
僕が聞くと同時に兄はハンドルを切って曲がり、ロータリーを出る方向へ車を出した。
『発注先の人を駅で降ろしたんだ、そしたらお前がいて、』
『すごいタイミング、よかった。』
『女の子といたから、ちょっと迷ったけど、』
『ああ、最後にやった飲み会で一緒だったひとなんだ、連絡先教えてくれって、』
『…、』
黙ったものだから横目で兄を見ると、あからさまに不機嫌な顔をしている。
それもそれで珍しいなと思った。
何が気に入らなかったのだろうか。
『兄さん、』
『うん?』
『合コン、したことある?』
『飲み会多い職場だからね、合コンとは言わないけど似たような感じなのはけっこうあったかな、』
『だよね。』
やっぱりこれまでにあったんじゃないか。
それらが兄と直接何も結びつかなかったのだろうか。
『いい感じになったりしないの?』
『…、』
まただ。
兄はまた不機嫌にして進行方向を見ている。
運転に専念しますといった顔だ。
この手の話は、兄は好きではないようだ。
『ごめん、なさい。』
窓の外に呟いた。
すると兄は珍しく溜息まで吐いた。
『いい、お前が悪いんじゃない。ごめん、』
意味がわらからない。
僕が悪くなかったら、なんだと言うんだろう。
もう深追いしない方がいいんだろうな。
『その気は、あるのか?』
『え?』
『さっき会ってたひとと、』
『ええ?いや、ないよ。』
『連絡先交換したんだろ?』
『まあ、うん、流れっていうか、断れなかったのもあって、』
『…、』
そしてまた黙る。
なんだと言うんだ。
暗い中だけれど、見慣れた道を走っているのがわかる。
外だけを眺める。
僕からはもう口を開かない方がいいのかな。
今日の夕飯はなんだろう。
兄は両親の前だったらこんな顔はしないんだろうな。
でも、どうしてだろう。
父や母に反抗したところも見たことがない。
僕にだってそうだ。
なんで大人になって、今になってあんな顔をされなくてはいけないんだろう。
そして夕飯ぐらい、家族で美味しく食べたい。
特別楽しくなくてもいい。
ただ、美味しく食べたい。
すぐに自宅へ着いてしまう。
結局それ以上の会話はなかった。
『兄さんありがとう、助かりました。』
『ん、』
荷物を手にして車庫から自宅へ向かう時だった。
『、』
手首を掴まれた。
振り返ると、兄が僕の顔を見つめて立っていた。
『俺、』
『うん?』
『この家、出ようと思う。』
『え、』
なんで、今なの。
どうして、今なの。
いつから、考えていたの。
これと機嫌が悪くなったことが関係あるの?
家を出る理由と機嫌が悪くなる理由は、僕なの?
『…、なんで、』
『父さん達にはまだ話してないけどね、』
『兄さ、』
『もう、我慢ができなくなってる。』
『なんの、』
『…、ごめんな。』
笑った。
今なの。
そのタイミングで笑うのって、物凄く不愉快だなって思った。
そういうの、あまり好きじゃない。
『…、僕は、…今日の兄さんは、好きじゃない。』
理由を言わないのも、筋を通さないのも、僕がこれまで見てきた、大好きだった兄ではない。
好きじゃない。
嫌いだ。
こんな兄は、好きじゃない。
その場を去った。
先に自宅へ入り、自分の部屋に駆け込んでらんぼうに着替えた。
リュックを投げ、着ていたシャツを投げ、スマートフォンをベッドに投げて弾ませた。
『…、意味がわからない。』
ここにいるって、言ったくせに。
母親が下の階から夕飯が出来ているという知らせを叫んでくる。
どんな顔をして兄は食卓につくのだろうか。
『…、』
知るものか。
平気な顔をしていようが、さっきの空気を引きずっていようが僕には関係ない。
僕は冷静さを取り戻すこともなく、下の階に降りて食卓についたのだった。
同じく部屋着に着替えた兄が後からやってきた。
予想通り、両親の前ではいつもと変わらないいい息子の顔をしている。
いい息子の顔。
いい長男の顔。
兄はそれらを作って、演じて、本来の自分を表に出すことをずっと我慢していたのだろうか。
では本来の兄の顔は、感情は、どんなものなのだろうか。
知りたいけれど、今知るにはとても腹が立つ。
だって僕は約30年間今の兄を慕って生きてきた。
大好きだった。
それは紛れもない本来の僕が持った印象と感情だ。
兄がこれまでの自分を作っていたとしても、そこに人情はあった。
だから周りの人達も動かされてきた。
両親も、僕も、かつての互いの同級生たちも、近所のひとたちだって。
そして兄の面接で面接官をした上司だって。
それらが偽りの顔だとしたら、僕の方がこの家から出たくなる。
僕が好きだった兄は、僕にとっては大切な人格だった。
好きだった。
好き。
好き?
『どうしたの?』
母親の声がする。
父と兄の視線も感じる。
もしかしてこの兄への執着というものが出てくる場所というのが「好き」という感情からなのではないか。
「そういう好き」だから、執着することになっていたのではないか。
『どうしたの、ねえ、』
母親に肩を叩かれた。
『あ、え?』
『ぼうっとして、どうしたの、』
『ああ、うん、ええと、ごめんなさい、ちょっと後で食べます。』
『え?ちょっと、』
今日はトンカツだったようだ。
せっかくの揚げたてだったのに、どうしても食べたい気持ちが引っ込んでしまった。
あの場に居られなかった。
何がなんでも食べるのではなかったのか。
僕は自分の部屋に飛んで帰った。
ドアを閉めて、その場で立ち尽くす。
自分の部屋を見渡せる場所だけれど、視界にはとても狭い範囲しか映らない。
眼球が動いてくれなくて、何も無い床を一点見つめるだけだった。
好き。
休日もふたりで一緒にいたいくらい好き。
大人になっても離れたくないほど好き。
街中でも手を繋げるくらい好き。
セックスをする夢を見るほど好き。
だったのだろうか。
でも、兄のことはやはり好きだ。
ただ単純に、好きだとは思う。
その好きという自分の気持ちを、複雑に考えたことはあまりない。
素直に、単純に「好き」の2文字で感じられる。
家庭を持つことに寂しさを覚えるくらい好き。
『…、』
つまりそれは、兄の相手になるひとへの嫉妬。
嫉妬。
そんなものに今気づくなんて、僕はなんて馬鹿なんだろう。
これから家を出るかもしれないって言ってるひとに対して。
僕はなんて気持ちに気づいてしまったんだろう。
なんでこんな年齢になるまで気づかなかったんだろう。
馬鹿じゃないの。
『本当にバカだ、』
弟として嫌われて離れられるのだとしたら、僕はこの30年間の何を残して生きていけばいいのだろう。
とても悲しい。
とても悔しい。
とても苦しい。
好きになるって、こんなに自分が馬鹿になれるものなのだろうか。
とても泣きたい。
それなのに、涙はひとつも出てくれないようだ。
続く
🐷食べろよ、な?(´;J ;`)
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