深海魚の空間を抜け出して、エントランス寄りの明るい場所にあるベンチに座った。
売店でカップの飲み物を買って、少しの間座って黙っていた。
涙は止まっていたけれど、なんとなく気まずいのもあって口を開けずにいた。
兄は兄で何も言わずにただ隣にいてくれる。
その肩や腕にしがみついて、もたれ掛かりたくなる。
どこにもいかないでと、言ってしまいそうになる。
どこかに行くとか、離れるだなんて兄はひと言も言っていないのに。
自分の胸のなかだけで妄想が膨らんでしまうのだ。
だから苦しい。
馬鹿げている。
『大丈夫か?帰るか、今日は。』
『ううん、平気。ごめんなさい。』
一体僕はどうしてしまったのだろう。
どうしてこんなにも兄のことで一杯になってしまったのだろう。
『ごめんなさい。』
とりあえず謝るのもおかしいのだけれど、声が出てしまう。
『なんでお前が謝るの。』
『…、変なんだ、このところ、僕は変なんだ。』
まだ言われてもいないことで変な風に悩んでいる。
僕は本来、スマートに生きるタイプだった。
それなのに、今はそれと真逆の思考を持ってしまっている。
栓のないことで悩んでいる。
『兄さん、』
『うん?』
ベンチに手をついた時、兄の手に触れた。
だからそのまま掴んで握った。
『どこにも行かないよね?』
『、』
『この家から出て行ったりしないよね、』
『なんだ、どうした突然、』
どうして胸のなかに押し込んで置けなかったのだろう。
こんなの僕じゃない。
こんな妄想が激しくて感情的なのは僕じゃない。
僕は胸を患う病気なんてもってない。
それなのに、どうしても苦しい。
『…、俺も自立しなきゃとは思ってるけど、』
何をもって自立というのかも、僕はよくわからない。
だって兄は自分で稼いで生活費だって家に入れている。
自分のことは自分で全て支払って生きている。
安定した収入もある。
それのどこが自立していないのかわからない。
兄は続けた。
『気がかりなことがあって、なかなか動けないでいる。』
気がかりなこと。
それは、なに?
自分の出生のこと?
この家の両親のこと?
僕にはその程度しか思い浮かばない。
『いいよ、行かなくて、どこにも。』
『…、そうかな、』
『そうだよ。水族館、回ろうよ。』
『ああ、うん、』
『僕は塩のソフトクリームが食べたい。』
『ははは、俺も食べたい。わかった、行こう。』
僕に差し伸べる手のひらを握る。
立ち上がって、そのまま手を繋いで歩き出す。
ペンギンやアシカを間近で見て、ショーの時間に合わせてイルカを見に行った。
それからソフトクリームを食べて残りの魚たちとひと通り遊んでから水族館を後にした。
大丈夫、多分もう泣かない。
粒が大きな塩が振られていたソフトクリームに癒されたもの。
それを食べる兄の可愛い横顔にはもっともっと癒されたもの。
大丈夫、兄さんは、どこにも行かない。
しっかり水族館を楽しんでしまうと遅い昼になっていた。
食べるなら店が空いている時間だと、前向きな気持ちで飲食店を探した。
ナイフとフォークで食べるような美味しいハンバーガーを食べられる店に寄って、ふたりで別なものを注文しては写真を撮ってはしゃいでみた。
僕のパティはビーフ、兄はチキン。
それから山盛りのポテトフライ。
ハンバーガーは見かけよりなんとも上品な味付けで、ビールを飲みながら堪能したかった。
『飲めばよかったのに、痩せ我慢するから、』
帰りの車のなかで兄が言う。
『兄さんに悪いよ、昨日の件もあるし、』
『あはは、気にしてんだ?』
『一応ね、』
『じゃあ今夜は部屋で飲もうか、』
『珍しいね、いいの?』
『うん、好きなビール買って帰ろう。』
帰りは中身がある話はあまりせずにしておいた。
水族館で見てきた魚たちの話をして、また僕が持ってる雑学を少し出したりなんかして過ごした。
コンビニに寄って兄がアルコールのコーナーを眺めていた。
各銘柄を1本ずつ買っているあたり、この兄らしいと思ってしまう。
迷うんだったら全部買っておこう。
わからなかったら僕が好きな物を選べるようにしよう。
そんなふうにものを選んでいる気もする。
よく言えばね。
悪くいえば大雑把かな。
どんぶり勘定なところもあるし。
だからこのひとには、穏やかに制することができるひとが必要だと思うんだ。
例えば、僕とか。
なんてね。
帰宅して早速、母に買ってきた掃除機をプレゼントした。
嬉しそうに掃除機の箱を抱く母は、「ユンホの部屋の掃除がしがいがある」と肩を弾ませていた。
そう、多分、そんなふうに片付けてくれる存在も必要。
片付けることが苦手なひとだもの。
ハンバーガーが胃の中に残っているという兄は、母の手料理を律儀に少しずつ食べていた。
僕はまあ、有難く健康すぎる胃を持っているから全部食べたけれどね。
風呂を済ませて、また母にパンツ1枚という姿を叱られながら冷やしたビールを抱えて兄の部屋に飛び込んだ。
この夜は僕の妄想や無駄な不安を出さないと決めたんだ。
とことんどうでもいい話で飲んでやろうと思った。
互いの仕事の話や、子ども頃の馬鹿なことをしていた時の話、好きだった給食の話と、何故か下着や部屋の温度なんていうどうでもいいことで盛り上がった。
飲んだ分トイレも近くなる。
互いに入れ違う形でトイレと部屋を行ったり来たりしているうちに、僕は急に眠くなってしまって、兄のベッドで寝てしまっていた。
何本飲んだのだろう。
物凄く気持ちよくて、兄のベッドを自分のもののようにして寝ていたと思う。
『チャン、』
遠くで兄に呼ばれている。
とても遠いところから。
でも手を伸ばせば届きそうでもある。
気配があるから。
感じるもの同士がチグハグだ。
『チャンミン、』
返事をしたいのだけれど、口が開かない。
海の中にいるような、モヤのなかにいるような、不思議な感じだ。
多分これは、夢のなかなのだろう。
『ごめん、』
聞き覚えのある声色。
いつかも似たような夢を見たような気がする。
見たよね。
いつだったっけ。
とても最近。
『我慢が出来ない。』
我慢。
ねえ兄さん。
その我慢は、いつからしていたの。
何に我慢していたの。
『騙すようなことをして、ごめん、』
騙す。
兄さんが、僕を?
ダメだ、体が動かない。
無理に起きようとしなければとても心地がよかった。
指のひとつも動かない。
けれど優しい刺激を感じていた。
多分唇や口のあたりで感じているんだと思う。
これはキスかなっていう感じるのもの。
キスなのかな。
兄さんがしているのだろうか。
やっぱり以前にもこんな夢を見たよね。
もうあまり覚えていないけれど。
ああ、目が開くかもしれない。
瞼が重い。
部屋は暗いのかな。
明るくない。
『ふん、』
僕の体のなかから、変な声がした。
『ああ、』
どうやらキスは続いているようだ。
兄さんは、キスが上手なようだね。
それって、いつ、誰として覚えたの。
僕は大学時代以来してなかったよ。
こんな感じ、ひさしぶり。
唇が軽くなった。
舌が涼しくなる。
『あ、』
今度は別なところが重たくなった。
お腹の方。
いや、もっと下かな。
それはまるで、女の子にしてもらうような、あれ。
『へら…、』
口が回らない。
『起きた?』
どこからか兄の声がした。
けれど視界がボヤけて確認できない。
「下の方」が熱くなってきた。
『にいさ、』
『まだ効いてるな、』
体がサウナにいるみたいに熱くなってきた。
内側から色んなものが溢れるような熱さだ。
汗が止まらない気がする。
『チャンミン、感じてる?』
感じる?
ああ、そうか、熱いのは、気持ちいいということか。
あまり考えられないけれど、多分そんな感じ。
『こっちは、可愛いことになってるけどね、』
こっちって、どっち。
『まじで、かわいい…、』
その兄の声は、聞いたもこともないような声だった。
目の周りが熱い。
下の方が熱い。
『ん、ん、にいさ、』
次第に色んなところが熱くなって、色んなふうにたまらなくなって、色んな声が出てしまっていた。
『んん、ん、ん!』
『いいよ、出しな、』
何を?って聞く前に、僕のどうにかなってしまっている体は色んなものを出してしまったらしい。
色んなものといっても、あれしかないのだけれど。
僕はどうしてしまったのだろう。
呼吸がしにくくなった。
上手く呼吸が出来ない。
思いきり吸われている。
気持ちいい。
兄さんの舌が動いているのがわかる。
気持ちいい。
歯を立てられる。
気持ちいい。
物凄く、気持ちいい。
『チャンミン、かわいい、』
『に、さ、…くるっ、』
言葉にならないまま、下の方と頭のなかで、何かが破裂するような大きな快感が僕を襲った。
気持ちいいという感覚が、僕のなかにあったドロドロした何かが全部外へ出ていったようだった。
空っぽになった僕の体は、だるくなる一方だ。
意識もあるのなかないのかわからない。
『に、』
『……、』
狭い視界のなかで、兄の顔が見えた。
僕の知らない感情を出している顔だった。
興奮。
優越。
狂気。
そういうものが、このひとのなかにあるんだなっていうような。
そんな顔で笑っていた。
けれど、眠い。
僕は、眠い。
とても眠い。
『最後まで、してもいい?』
最後までって、何?
聞きたいけれどもう声も出ない。
目も開かない。
『まだ効いてるか、』
夢のなか。
兄の体が僕のなかに入ってくる、そんな夢を見ていた。
痛くはない。
だからやっぱり夢だと思う。
よく見えないままだったけれど、抱き合って、重なって、ひとつになっている感じ。
どうしようもないくらい熱くて、閉じた目から涙がたくさん出ていたのはなんとなく覚えている。
それから、ずっとずっとしがみつくようにして、兄の背中を抱いていた。
多分、そういう夢。
しかし、僕はなんていう夢を見てしまったのだろう。
それはまるで、兄とセックスをしているような夢だった。
目を覚まして体を起こした時、節々が痛んだ。
頭も重い。
頭痛がする。
飲み過ぎたせいだろうか。
それから床で寝ている兄の姿が目に入った。
腕を枕代わりにして、横になっていた。
時計を見ると、午前4時。
『兄さん、起きて。ごめん、ベッドで寝ちゃってた。』
慌てて肩を叩いて起こす。
なかなか起きないから、腕を引っ張ってベッドに上げた。
手足になかなか力が入らない。
もたもたしていると、兄の体が倒れてきた。
『あっ、』
兄の体が僕の上に乗ってしまった。
力が抜けている状態の体って、とても重たいんだと思った。
『…、』
動かない。
今の僕の体ではなかなかどうにもならないらしい。
『仕方ないな、』
とりあえず、ベッドに上げたしよしとしよう。
まだまだ眠くて、頭が重い。
起きたらきちんと謝って、それから部屋を片付けよう。
散らかしてごめんね。
汗くさくてごめんね。
でも、もう眠たくて眠たくて。
腕がひとつも上がらないんだ。
続く。
(∵)ニヤ
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