言ってから恥ずかしくなるのも最近の傾向な気がする。
運転中の兄が正面しか向けないことをいいことに、僕は窓の外の景色を見ることに専念した。
窓の外は、要塞みたいな高い壁で覆われていたけれど。
兄も特に言葉を発することはなかった。
引かれてしまっただろうか。
それならそれで仕方ない。
変なことを言ってしまったという自覚はある。
認めよう。
高速道路を降りて海沿いのバイパス道路を進む。
新しく出来たその道路は海の上を走っているように見える。
真っ青な海が広がっている景色が助手席から見える。
変な気分にさせてしまったこの空気を、海の青さがどうにかしてくれないだろうか。
そう願って兄の方を横目で見る。
こういう時に限って横目同士で視線が合ってしまうのだ。
気恥しさが5割増だ。
忘れよう。
忘れて欲しい。
お願いだから、忘れて欲しい。
兄さん、水族館を楽しむことに集中しよう。
ここの水族館は面白い魚がたくさんいるからね。
兄さん、この水族館にはね、生きた化石と呼ばれる深海魚の標本があるんだ。
「ラブカ」っていってね、妊娠期間が3年半もあるんだって。
長い間そんなに大切なものを抱えて守って生きていくって、どれほど大変なことだろうね。
そう思うと、僕は実家にいるまま、家族に守られて生きてるだけだった。
僕は確実に年老いている両親と優秀な兄に守られながら今も生きている。
ねえ兄さん。
兄さんの守りたいもは何?
本当は僕達以外の誰かなんじゃないの?
違う?
違ったのなら、嬉しい。
僕はまだ守られたい。
そしていつか僕が兄さんを守ることができるなら、させて欲しい。
だって、家族だから。
兄弟だから。
僕からしたら、兄さんは唯一無二の存在だもの。
兄さんはどう?
兄さんからみた僕は、なに?
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190728/10/mino-cotty/c5/b5/j/o1080108014514542883.jpg?caw=800)
『大人2枚。』
当然といった顔で受付で済ませる兄の背中を眺める。
『はい。』
そう言ってチケットを渡してくる顔がとても可愛い。
『ありがとうございます、』
チケットには可愛くイラスト化されたタツノオトシゴが描かれていた。
『俺の…、なにこれ、イルカ?』
『ジュゴンじゃないかな、人魚のモデルになったって言われる。』
『…、』
そこで黙るあたりも素直で可愛いよね。
他の客がやってきたので場所を譲ると、受付のスタッフの目が僕と兄に釘付けになっていたのを見てしまった。
ペアルックみたいな服を着てしまったことに気づかれたようだ。
僕は兄の手を引いてそそくさとその場を後にし、入場したのだった。
客の入りは程々といったところだろうか。
場所によっては人が少ない空間もありそうだ。
入場するとまず僕達を迎えてくれたのは大量のお土産物。
どこから回ろうか話をしながら歩いていると、兄は館内マップを見て足を止めた。
『チケットの、ジュゴン、人魚のところに行こう。』
世界で飼育している水族館は片手の指を折る程にしかない。
僕はラブカも見に行きたい。
今度は兄が僕の手を引いて歩き出した。
屋内は全体的に暗い。
ショーをやるエリアや屋外は別として、個人的にはきっと深海魚のエリアが暗くて落ち着くような気がする。
『ここにいるジュゴンはメスなんだね、』
マップに書かれている説明を読みながら歩く。
そのエリアに入ると水槽と非常灯のみの明るさがある。
離れた場所にいる客の顔はほとんど見えない。
『どこ?』
兄が水槽に手をついて探す。
『ほら、下の方、』
『いた、うわ、でかい。』
下の方からゆっくりと他の魚たちと浮上してくる。
魚たちと気泡と上がってくる姿は、僕達が思い描く人魚とはあまり重ならないけれど、神聖なものだということはなんとなくわかる。
見慣れないものだし、自分より大きな生き物が堂々と漂っている姿には圧倒されるものがある。
僕たちは彼女が自分の庭を漂う様子を時間を忘れるように魅入っていた。
『…、ここにひとりでいて、』
兄が呟いた。
『いや、ひとりじゃないか、』
その呟きを聞いて、兄のこの30年を一変に感じた気がした。
本当はひとりだった。
寂しかった。
孤独だった。
でも、その事実と思いを押し込んで、「そうじゃない」自分を正当化して生きてきたんじゃないだろうか。
兄のこのひとことで、僕は疑いを持ってしまった。
別に今のつぶやきでだって「寂しい」だなんて言ってない。
この一瞬で働いた僕の直感はあまりハズレているとも思えない。
『寂しくないのかなって、思った?』
水槽を見上げる兄を見る。
『え?』
『同じ種類の生き物でないと、血が繋がっていないと、やっぱり寂しいと感じるのかな。』
『チャンミン、』
僕は思わなかった。
兄と血が繋がっていなくても、そんなこと思わなかった。
でも、僕は両親と血が繋がっていた。
兄は誰とも同じ血が流れていない。
だから僕は、兄の寂しさなんてわからない。
ああ、そういうことなのか。
『…チャンミン?』
その「到底理解出来ない」という僕を溺愛することで、孤独という事実を消していたのか。
違う?
そうじゃない?
『ううん、なんでもない。』
『広くないのかなって、思った。』
『え?』
狭くないのかな?ではないの。
寂しくないのかな?ではないの。
違うの?
言葉にしようとしたことを、別な言葉を発することで自分の意志を塗り替えんじゃないの?
違う?
『広い海を知らないのであれば、広く感じるだろうなって思って、』
『、』
胸のなかが、とても悲しくなった。
どういう経緯でこのジュゴンがここへ来たのかはわからない。
それは兄がこの家にやってきた経緯を知らないのと同じか。
海の広さを知らなければ、この大きな大きな水槽と自分より小さな魚たちと暮らすことがこのジュゴンの生活の全てになる。
生まれた時から兄の姿があったから、僕は兄と家族をしていることと同じことかな。
兄は、実の両親との思い出があれば、僕達の家にいることが狭く感じたのかな。
飛び出したくなったのかな。
ダメだ、兄への「疑い」が拭えない。
『……寂しいとは思わない。それでも傍にいてくれる人達がみんな優しかったから、…お前が、そういうことをひとつも感じさせてくれなかったから、』
『…、』
きっと兄は、僕のわかりやすい顔色を見て、僕が持ってしまった疑いについて弁解しているんだ。
『感謝してる。お前に。』
『…、』
感謝していることを、自分の意識に刷り込ませているんでしょう。
それに感謝しているのは、僕の方だ。
ひとりっ子だったら、どんな大人になっていたかなんてわからない。
兄がいてくれたから、社会というものに順応できたんじゃないかって思っている。
兄という追いかけるものがあって、見習っていれば間違いはなかったから。
ダメだ、この仄暗さは落ち着くどころか感傷的にしてくれる。
ここにいてはいけない。
『兄さん、次に行こう、僕はラブカがみたいんだ。』
『…、うん、』
ジュゴンと兄を背にして歩く。
『、』
腕を取られた。
引っ張られる。
『ごめん、』
『、』
夢のなかで聞いた声と同じもの。
同じ色。
同じ悲しみを含んだ声。
後ろから抱きしめられる。
他にも客はいるのに。
顔は見えないだろうけれど、どんな状態かというのはわかるだろう。
『兄さん?』
『少しだけ、…、』
『、』
これもだ。
いつか兄の部屋で過ごしていた時のこと。
「少しでいい」ってそんなことを言った時の声と同じ。
『このまま、』
兄さん。
胸のなかが悲しくて、苦しくて、辛い。
どうして僕は、兄がこの家族に嘘をついていることを願ってしまうような妄想をしているんだろう。
兄はそんなことひと言も言っていないのに。
なんで、どうして。
『好きだ。』
『、』
これもどこかで聞いたような声。
『に、』
『ごめん、本当にごめん、』
『、』
それから肩を動かされ、暗がりのなかで兄と向かい合う形になった。
目が合う。
鼻先がぶつかる。
これは――――
『行こう、』
キスをされるのかと思ってしまった。
鼻先以外は、どこにも何にも触れなかった。
兄は1度ぎゅっと目を閉じて、僕の手を引いて先に歩き出した。
キスをされるのかと思った。
だから「ごめん」と言ったのかと思った。
キスじゃなかったら、何をするつもりだったの。
キス以外のことで、何に謝ったの。
有耶無耶のまま、僕達は少しだけ明るい通路に出た。
会いたかったラブカを見に行った。
白くて長くて、美しいと思った。
でも、さっきのことがなければ僕はもっと感動できたかもしれない。
僕の体の中は、今兄のことでいっぱいで、考える頭も働いてくれない。
知ってることを声にすることで、精一杯だった。
『ラブカは、妊娠期間が3年半もあるんだって。』
『へえ、』
『だいじなものを、ずっとお腹のなかにいれて、敵から守って生きるって、大変だよね。』
『、』
物凄く大袈裟な棒読みだった気がする。
『だから、深海で生きることを選んだのかな、』
兄は何を守って生きてきたのかな。
『疲れ果てて挫けたりしないのかな、』
『チャンミン、』
ねえ兄さん。
そんなに親孝行で優等生をしていて辛くない?
『怖くならないのかな。』
自分で自分が怖くならない?
僕は今、あなたのことが見えなくて怖い。
優しすぎて、終わりが来てしまうことに恐れている。
『チャンミン、』
『家族がお腹のなかにいれば、何も怖くないって思えるものなんだろうか、』
『…、』
そう思い込んでいることで、世間のなかを泳ぐことができるかな。
ダメだ、もう、わからない。
なんでこんなことで僕が変に動揺しているのかもわからない。
兄さんが今まで通りそばにいてくれればそれでいいじゃない。
まだこの家にいるっていうなら、それでいいじゃないか。
『チャンミン、泣いてる、』
『え?』
『どうした?』
『え?え?』
深海魚がひっそりとしている水槽に囲まれた部屋で、大きな男ふたりで似たような服を来て突っ立っている。
しかも片方は泣いているらしい。
『兄さん、』
言葉にはならない。
今の僕の胸のなかにあるものがなんなのかわからなくて、それを現す言葉はみつからない。
でも、兄の背に腕を回して抱きついて、顔を押し付けていると、同じ柔軟剤の香りがして僕の心を落ち着かせてくれるようだった。
同じ香り。
血は違うけれど、同じ香りを纏って生きている。
それじゃだめ?
それでもいい?
ねえ、どっち。
聞きたい。
けれど、聞けない。
そんな自分が悔しくて、動かないラブカに横目で見られながら僕は泣き続けたのだった。
大人になって気付いたこと。
それは、1番近くにいるひとのことを、何も知らないで生きてきたということだった。
続く
ヨチヨチ(∵)ノ(´;J ;`)メッソリーニ
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