夢の中で。
兄さんは辛そうな顔をずっとしていたね。
「ごめん」て言っていた。
何度も、何度も。
何故謝るのか理由もわからないまま、僕はただもがくような、足掻くようなことをしていた気がするんだ。
僕はね、手も足も動かなくて、時々兄さんの顔が見える程度だったよ。
でも、夢の中でも唇に残るあの感覚はけっこうリアルだったんだ。
兄さんは僕にキスをしていたの?。
多分そんな感触。
でも、夢の中のことだよね。
ほら、夢って意味の無いものを見るものでしょう。
見えたものと全く違うものを意味したりするって言うよね。
だから僕が見た夢は多分まったく違うことを意味しているか、意味を持たないものなんだと思う。
アルコールが見せてきた夢だ。
だって、目が覚めたら僕は自分のベッドで寝ていたんだもの。
見慣れた天井、落ち着く匂い、聞き慣れた家族の声。
そんななかできちんと目を覚ました。
風呂に入らずそのまま寝てしまったから、不快感はあったけどね。
兄が担いで運んでくれたのだろう。
迷惑をかけてしまった。
僅かに頭痛が残っている。
飲み会自体が少し久しぶりだったから、アルコールにやられてしまったらしい。
父と母の声が聞こえる1階に降りる。
兄もいた。
3人で朝食を摂っているところだった。
『おはよう、』
両親が挨拶をして、兄が微笑んだ顔でこちらを見つめていた。
『おはようございます、』
『風呂か?』
兄に聞かれた。
『うん、兄さん、昨日はごめんね、運んでくれたんだよね、』
『そうよ、ユンホと父さんで運んでくれたんだから。』
母が答えた。
兄の車から、熟睡してしまった僕を男ふたりで担いでくれたのだそうだ。
家族みんなにみっともない姿を見せてしまった。
『朝ごはん食べる?』
『ううん、ちょっとやめておく。お風呂、行ってきます。』
胃もむかむかしている。
そうか、僕はやっぱり、自宅で好きな銘柄のビールを嗜む程度が1番合っているのだろう。
色んなことをまとめて、しばらく酒の席は控えようということになったのだった。
ゆっくりと湯に浸かって目を閉じていると、とても気持ちよかった。
体の怠さがとれてくれるようだ。
汗を流さず寝てしまった不快感は綺麗に消えてくれると、気持ちも徐々に上がってくるものだった。
今日は兄と大型の家電量販店に向かう。
どんな掃除機がいいものか考えたり、それとも兄が既に母から希望を聞いているのかなどあれこれ思案しながら風呂の時間を楽しんだ。
兄との予定のことを考えていると、昨日までひとり無駄に不安になっていたことを忘れることが出来た。
そして結局は、どちらにせよ兄のことを考えている自分に気づく。
ブラザーコンプレックスというものなのだろうか。
そうだとしたら、これは否定が出来ないレベルだとは思っている。
だって、離れたくない。
それはきっと、今の生活に僕自身が満足していて、変化を恐れているからなのだろう。
『…、』
また兄への変な勘ぐりを入れてしまいそうなので、ここで風呂を後にした。
『またパンツ1枚で出歩いて、』
そのままの姿でキッチンに向かい、水を飲みに来たのだったがピシャリと叱られる。
リビングにいた兄が頬杖をついてこちらを見て笑っている。
テーブルには新聞の広告が広げてある。
やはり既に母とプレゼントの打ち合わせは済んでいるらしい。
『目当てのは決まったの?』
水を飲みながらテーブルの向かいの席へ座った。
広告を覗くとある掃除機に赤いペンで丸く印が付けられていた。
『これがいいって、』
『へえ、』
有名メーカーのもので、コードレスだけれど吸引力が大きく、スタイリッシュなものだ。
家電を買うならやはりこのぐらいいいものを選ぶべきなのだろう。
兄と僕で出資をすればそれほど痛くはない額だろう。
想定内の金額ということで僕からもこれでいいと返事をした。
『昼はなにか食べられそう?』
『うん、お風呂入ったらだいぶスッキリしたから、』
『そっか、何食べたい?なんでも奢ってやろう。』
『うっわ、どうしよう、』
『はははっ、ボーナス入ったから、たまにはね。』
結局夏のボーナスがこの買い物の話の発端でもあった。
冬は両親に近場の旅行をプレゼントしたのだった。
家電の買い換えを口にした母の言葉から、夏のボーナスでのプレゼントが決まったわけである。
でも、こんなに親へプレゼントをする息子も世の中そんなにいないと思うな。
自分こそ贅沢したらいいのに。
まあ、車はいいものに乗っているし、実家にいるし、服はそこそこのペースで買っているとは思う。
だからもっと羽を伸ばせるような場所に行ったり、友達と遊び尽くしたりしてもいいのに。
海外へ遊びにいくのだって、上を見過ぎなければ今の収入でも可能だろうに。
まるで僕や家族にお金を使うために働いている。
それでいいの?
聞いてみたいけれど、また僕の考え過ぎかもしれないし、なんとなく兄を困らせるんじゃないかとも思うのだった。
なんとなくね。
『着替えてきな、開店時間を狙おう。』
『うん、ちょっと待ってて、』
自分の部屋に戻り、服を選ぶ。
急いで掴んで袖を通し、愛用のバッグのなかに財布やスマートフォンを放り込んで部屋を出る。
そして改めて兄の姿を見て、自分が選んだ服に気付いた。
『被った、』
兄は太めのラインが横に入ったマリンルックなシャツだ。
そして僕はラインが細めで同じような色をしたシャツを選んでしまった。
ふたり並んでみるとかなり執拗い。
『なんか、…、ちょっと着替えてくる、』
『いい、いいから、チャンミン、』
母にも笑われた。
「仲良しね」って付け加えて。
並んで歩くとただでさえ目立つのだから、ふたりして同じような格好をしていたらまた目立ってしまうではないか。
『じゃあ、いってきます。』
兄は僕の手を引いて強引に家を出た。
車に乗せられる。
シートベルトをする時に、昨日迎えに来てもらった時に貰ったアイスコーヒーが置いてあった。
ほとんど飲んでいない。
最初のひと口程度だったようだ。
もう氷が溶けて常温になっている。
兄はそれに気づき、1度締めたシートベルトを外してアイスコーヒーのカップをふたつ回収して自宅へ消えた。
どうせまたコンビニに寄って新しいアイスコーヒーを買うのだろうから、そこで捨てればいいのに。
兄は直ぐに戻ってきた。
『ごめんね、せっかく買ってくれたのに、ほとんど飲んでなかった。』
『いや、美味しそうに飲んでたよ。』
『ごめんね、兄さんありがとう。』
運転席に乗るとまた僕の頭を撫でてシートベルトを締め直し、車を走らせた。
僕の予想通り、すぐにコンビニに寄ってアイスコーヒーをふたつ買った。
兄はガムシロップを入れる。
僕はブラックというのが互いの飲み方のパターンだ。
煙草も一緒に買ってきたようだ。
『最近吸うんだね、』
『まあね、さすがに家では吸わないけど。』
『ねえ、昨日も吸ってたよね?車で待っててくれる時、』
『、…ああ、うん、』
『珍しいなって思って、』
『そうか、お前昨日の記憶あるのか?』
兄は話しながら車を動かしてコンビニを出た。
『いや、ほとんどないんだよね。起きたら家だった。』
『うん、』
『でも、うーん、』
『どうした?』
『ねえ、どこか寄り道した?』
『したよ、近くのコンビニで1時間ぐらい止まってた。』
『どうして?』
『誘拐したくて、』
『なにそれ、』
『赤ちゃんみたいな顔で寝てるから、ついね、』
『やめてよ、』
『まあ、俺もちょっと眠かったからね、眠気どうにかしたくて。』
『ああ、うん、遅くにごめんね、もう飲み会はちょっと控えるよ。』
『ははは、いいんだよ、…すごく、可愛かったから。』
進行方向を見つめながら、唇を上向きしている横顔。
昨夜はやはり不思議な夢を見たのだ。
普段からこんなふうに仲がいいから、夢のなかで少し湾曲したものを見せられたのだ。
意味のないもの。
開店時間に並べると、数量限定の商品が買える整理券が貰える。
それを目当てに車を走らせ、予定より早く着くことが出来た。
ふたりで並んで目当ての掃除機の整理券を受け取る。
同じような柄のシャツを来た、同じような身長の男がふたり並んでいる。
その列の誰よりも身長が高かった僕達だった。
やはり別なシャツに着替えてくればよかった。
開店時間になると、店長らしき男性が自動トビラを開けて恭しく挨拶をする。
整理券を受け取れた僕達は余裕で店内に進み、色のバリエーションで少々悩んだものの、白で揃えようとなって買い物は済んでしまった。
兄が欲しいものはあるかと聞いてくるけれど、腕時計もパソコンもポータブルオーディオも間に合っている。
掃除の家電は母に任せているのもあって、個人的に特に必要性は感じていない。
『余った時間はデートしよう。』
そんなことを言ってみたら、兄が物凄く嬉しそうにするから僕の方が照れてしまった。
兄は本気で受け取るというか、そういうところがピュアなのだろうか。
弄んでしまった感が少しある。
昼食にはまだ早い。
服もそれほど困っていない。
兄は買うのが好きで、買ったものをよく忘れる。
だから時々買ったものについて尋ねてやるのだ。
すると思い出して開封して使い始めるというパターンが多い。
『僕は買い物は特にないかな、』
『そうか、じゃあ…水族館でも行くか?』
なんて可愛い場所を選んだものだ。
水族館なら僕達の服よりも見るものも目立つものも多いから気にならないだろうか。
『いいね、兄さん行こう。』
本当にデートっぽくなってしまったけれど、水族館なんて何十年ぶりだしそれもいい休日の過ごし方だ。
工学科だけど科学の研究員として生き物を見るのもまたいいではないか。
『チャンミンは、俺が言うことなんでもいいねって言ってくれるから、つい調子に乗るんだよ。』
兄が車のナビを設定しながらそう言った。
『兄さんだって僕が欲しいものなんでも買ってくれるじゃない。僕の方がだいぶ調子に乗ってるやな弟だと思うけどね、』
『はは、それはいいんだよ。俺がなんでも買ってやりたいだけなんだから、マジで。』
『もったいないなぁ、やっぱり彼女とか―――』
そう言いかけて、なんとなく僕は口を噤んだ。
それは僕の本心ではないなと思ったからだ。
『うん?』
『ううん、なんでもない。独身貴族って余裕あっていいよね、』
『お前だってそうじゃん、あははっ、』
『そうだった…、』
笑ってくれているけれど、多分僕が言いたかったことはどんなことか気付いている。
気付いていないフリをしているんだと思う。
だから思うんだ。
僕が気づいてしまった兄への疑問を、兄は気づいているんじゃないかなって。
互いに「いつかはやってくる日」を気にしているんじゃないだろうか。
僕達が独立して、自分達の家庭を持つという日。
兄は、本当に僕が結婚するとなったら、喜んでくれるのだろうか。
いや、意味がわからない。
喜ばない理由もわからない。
喜んでくれるなら嬉しい。
まあ、予定はないけどね。
兄が結婚するとなったら、僕はまず喜べないと思う。
散々寂しがって、兄を困らせると思う。
僕はこれからの休日を一体どうしたらいいんだって、子どもみたいにわがままを言うと思う。
駄々をこねると思う。
では、何故駄々をこねたくなるなるのだろう。
それは寂しいから。
では、何故寂しくなるのか。
それは―――
それは、兄のことが好きだから。
では、兄のどんなところが好きなのか。
それは、僕を好きでいてくれるところ。
では、互いの好きってどんなものなのか。
それは―――――
『少しだけど高速に乗るわ、』
『あ、え、うん。』
兄の声で我に返る。
そのまま兄の運転する横顔を見つめる。
やはり僕とは似ていない顔の作りだ。
似ていない。
ルーツの違いを思い知らされる気がした。
両親は僕に兄と血の繋がりはないことを高校生になった時に話してくれた。
その前に知ってしまってはいたけどね。
両親は事実だけを告げて、兄がどんなふうにここへやって来たのかは話さなかった。
僕はそういう意味で空気を読む方だったから、深く追求もしなかった。
別に血が繋がっていなくても、兄弟には変わらない。
僕は生まれた時からこの家にいた兄と一緒に育ってきたのだから。
正式に、僕達は兄弟という関係なのだ。
では、僕と兄が全くの他人だったら。
友人であれば、きっと同じような感情や親しみを持っただろう。
では、どんな感情を持っただろう。
それはきっと、相手の結婚を素直に喜べない程に、寂しがるような感情。
高速道路に乗ったらしい。
景色が高い位置から見るものに変わっていた。
結局は同じものを抱いた気がする。
僕はね。
『母さんに電話しといて、』
『あ、え、うん、』
また兄の声に我に返る。
遊んでから帰ることを連絡しろと言っている。
『夕飯は?』
『家で食べようか、』
『うん、』
僕はスマートフォンで家に電話をした。
母が出て、「気をつけて」と返事を貰って終えた。
再び兄の横顔を見る。
『どうした?さっきから、』
『ああ、うん、あのね、』
言ってもいいのだろうか。
『僕は、兄さんのことが、好きなんだなあって思ってました。』
『、』
ここは高速道路。
急ブレーキを踏むわけにはいかない。
けれど兄の顔は、そんな瞬間のもののようだった。
本当は全ての行動をやめて、こちらを見たいというような顔。
『甘やかしてくれる兄さんが、まだ僕には必要なんだって思って。』
だから離れていって欲しくない。
大人になってから気付いた、僕の子どものような願望だった。
続く
(∵)トゥンク♡
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