ヒビコレカケラ10~明日のバゲット~(CM) | Fragment

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ホミンを色んな仕事させながら恋愛させてます。
食べてるホミンちゃん書いてるのが趣味です。
未成年者のお客様の閲覧はご遠慮ください。

粉やバターで時計が汚れるといけないから、エプロンのポケットに入れていた。
どうして仕事で使う腕時計を僕にさせていったのか。
彼が店を出ていったその時は、色んなことで頭がいっぱいであまり考えられなかったけれど、疑問ばかりが浮かんでくる。

けれど、疑問を解決できることはなくて、バターを使ったパンやその日のお菓子を焼き上げる作業に頭のなかは徐々に流されていった。

今日は残念ながらいいフルーツが入らなくて、バゲットで作ったラスクの日だった。
プレーンとガーリックバター味の2種類作った。
ちょっとしたプレゼントや差し入れにどうだろうね。
しょっぱい方はビールと一緒に食べてもいい。
もちろんワインでもいい。
ラスクでも、噛んだ時にじゅわっとしたバターを感じられると思う。
シナモンシュガーもいいかもしれない。
コーヒーフレーバーや、定番だけれどチョコレートをかけて冷やしてもいいかな。

ねえユンホさん、どんなラスクがいいと思いますか。

ひと袋残して置くので、感想のために食べてみてください。

ユンホさん。
変なひと。
僕を昔から、そして今も好きだと言う変なひと。

僕が持っていたけれど気づけていなかった、働く喜び。
今の僕を見て、それを気付かせてくれたひと。

母親とラスクの包装をしている間に思い出してしまって、また顔が熱くなって怪しまれた。
あのキスも、あの映像の僕達のことも。
動揺し過ぎて、上の空になるまでにも時間がかかったものだった。

そういう時に限って昼間は来ないんだよね。
時計だって返せないじゃない。
粉を触る仕事が落ち着くと、僕はエプロンのなかの腕時計を取り出して、いつもする方の手首につけてみた。
今どきのサラリーマンがするような、銀色のスタイリッシュな腕時計。
ねえ、これがないと不便なんじゃないのかな。

取りにおいでよ。
今ならまだ、プレーンもガーリックバター味もどちらも残っていますから。

ユンホさん。
おいでよ。






結局その日は店には現れず。
ラスクは翌日朝に押し付けようと思っていた。
夜中に起きて自宅から店に向かう時、彼に押し付けるためのラスクと彼に返すつもりでいた腕時計を持ってきた。
つい装着してしまったけれど。

夜中だよ。
夜更かしな人がやっと寝るぐらいの時間に僕は起きる。
もちろん電車も動いていない。
夜間走るトラックや、誰かを乗せたタクシーが大通りを走る程度の交通量。
そんな道路を横目で見てすぐに路地裏に入る。
その時だった。

『あぶない!』

誰かの声がして足を止める。
すると自転車に乗ったひとが目の前で急停止した。
腕に痛みが走る。
自転車のハンドルの、ブレーキの部分が腕に当たっていた。

『っ、』

『大丈夫ですか!』

若い男性だった。
自転車から降りて心配そうに見てくる。
それから僕の腕を引いて、体を寄せてきた。

『落ちるっ、』

『、』

振り向いてみると、蓋がされていない側溝がある。
踏み外していたら足まで怪我をしていたかもしれない。
打ちどころが悪かったら大変だ。
とりあえず真っ直ぐ立ってみる。
腕に痛みはあるものの耐えられない程ではなさそうだ。

『ああ、大丈夫です、多分。』

血が出ているわけでもないらしい。

『今日中に病院に行ってください、あの、もちろん治療費出しますから。ごめんなさい、スピード出し過ぎていて、』

男性は慌ててボディバッグからスマートフォンを取り出した。

『連絡してください、必ず。』

とりあえず連絡先を交換して、その場では別れた。
僕も余所見をしていた不注意もあったかもしれないし、当たった衝撃で手首が痛むけれど折れてもいないようだ。
昼の仮眠の時間はとりあえず病院に行くとしよう。
相手も気が気ではないだろうしね。
悪い感じのひとでなかったのが幸いだ。
不幸中の幸いってこういうことを言うのかな。

しかし、僕は少し浮かれているというか、ハイのままなのかもしれない。
慣れ過ぎた道だからというのもあるかもしれないけれど、僕も不注意だったのだろう。
気を引き締めて仕事をしなくては、失敗してしまいそうだ。
火も扱うしね。

鍵を開けて工房側の出入口から入る。
着替えて手を洗い、冷蔵庫で発酵させているバゲットの生地を確認する。
今日も彼女達、酵母は美しく元気に働いてくれているようだ。

彼からお守りと言われて預かった腕時計を外す。
汚れないように、エプロンのポケットに入れておく。

『あ、』

腕時計を外すと、手首に青い痣が出来ていた。
手首を曲げてもそこまで痛みはない。
生地を捏ねることやコンテナを運ぶことが出来なくなってはとても困る。
かなり困る。
心底気をつけようと誓った一瞬だった。


焼く前の発酵した生地の匂いに包まれて、ひとり無音で手を動かしているこの時間が好きだ。
不思議とひとりでいるはずなのに、独りとは感じないのだ。
それはこうして捏ねて成形している間も、彼女達が常に働いて変化を見せてくれるからだろう。
ひとりで彼女達と触れ合っている時間は、僕にとって神聖な時間なのだ。
手首の痛みも忘れていられてよかった。

ここは僕のサンクチュアリ。

夜が明ける頃、最初のパンが焼ける。
それがバゲット達。
期待通りの仕事をしてくれた彼女達に感謝をして、冷ます時間に入る。
それからバタール、ブール、クッペ…。
別のオーブンでスコーンを焼く。
バターを使わないパンが並ぶ午前7時前。
アイスコーヒーを飲みながらひと息つく。

『、』

イートインスペースに面している窓ガラスを叩く人物が現れる。

『ユン…、』

時計を見て、開店してもいいだろうと判断すると、正面の入口を開けて彼を入れる。

『おはよう!開店前にごめん、』

『おはようございます、今日は早いですね、』

『チャンミンあのさ、なんともない?』

『え?』

『事故とか、危ないこととかなかった?』

『いえ、…ああ、夜中ここに来る時に自転車とぶつかって、』

『、』

『手首、ぶつかったけど今はもう痛くもなくて、』

すると彼はすごい形相で僕の手を掴み、青くなった痣を睨むように見た。
内出血を起こしているようだけれど、骨にヒビが入るだとか、折れたような痛みはない。
自転車に乗っていた相手の為に病院に行くぐらいだろう。

そういえば、あの時腕時計をしていたのだった。
腕時計は無事だろうか。
彼に返さなくてはいけない。

『あの、これ、』

エプロンに手を突っ込み、腕時計を取り出す。
時計盤とベルトも無事なようだ。

『あ、止まってる。』

無事だけれど、針が止まっている。
ぶつかった衝撃でやはり壊れてしまったのだろうか。

『…、』

腕時計を凝視する彼の顔は相変わらず怖い。
壊れているのかな。
怒っただろうか。
怒るよね。
電池を交換して返した方がいいだろう。
そうだよね、少しの時間だったけれど借りていた(のかな?)のであれば元の状態で返さなくてはいけないもの。

『ごめんなさい、電池を交換してからお返しします。』

『いい、いいから、持ってて。』

『え?』

『持ってて、つけてて。』

『あの、』

『いいから。』

『、』

いつもの優しいとか人懐っこいあの感じの彼がどこにもいない。
焦っているみたいな、怒っているみたいな顔でしかない。
僕を睨むように見て、それから悲しそうに目を伏せた。
彼はどうしてしまったのだろう。

『ごめん、でもお願いだから、そのまま持っていて欲しい。』

『…、はい。』

困惑。
僕はどうしたらいいのかわからなくて、とりあえずエプロンに腕時計をしまった。
彼は小さく息を吐いて、僕の腕を再び持ち上げた。

『病院行こう、』

『ああ、はい、全て焼きあがったら行ってきます。自転車に乗っていた人に連絡をしなくてはいけないから。』

『そっか、当て逃げとかじゃなかったんだな?』

あ。
優しい。

『はい、逆にすごく気を使って貰った感じでした。』

『うん、』

いつもの彼が戻ってきたらしい。
それから彼は力ない感じで僕に腕を伸ばし、抱きついてくる。
心配されているのかな。
多分そうなんだろうね。
ごめんね。
今日は彼の肩から別なクリーニング屋の匂いがした。

『今日は午前中休む。』

『そうですか、』

『病院、連れてくから。』

『ひとりで行けますよ。』

『ひとりにしたくないんだよ。』

『、』

どうしてしまったのだろう。
ここで工房の奥から自分のスマートフォンが鳴っていることに気付く。
幸いお客様はまだ来ない。

『すみません、』

彼に詫びて電話に出ることにした。
着信は母からだった。

『どうしたの、』

母が言うには、家に大きな亀裂が入っているのを見つけたそうだ。
2階建ての一軒家だが、2階から1階の外壁に縦に避けるような大きな亀裂がみつかったらしい。
日曜日の朝、庭の草取りをしている時に見た時はそんな亀裂はなかったのだと言う。
古い家だし雨が降っても困るから、午前中はすぐに工事をしてくれる業者に見てもらう対応で母親は手伝いに来られないという旨だった。
僕は僕で病院に行くことを伝えると、母の代わりに父がいつもより早く来てくれることになった。

電話を終え、それを彼に伝えると黙ったまま手を震わせていた。

『色んなことが重なりますね。』

笑うしかない。
そして本来の開店時間になると、常連のお客様がやってくる。
彼はパンを選ぶことなくイートインスペースへ座り、何かを考えるように窓の外を眺めていた。
睨んでいると言った方が近いかな。
彼はどうしてしまったのだろう。

お客様が途切れた時に、アイスコーヒーを入れて彼のもとへ運ぶ。
コースターが必要のないグラスだけれど、コースターを置いた際に僕がやってきたことに気づいて見上げてきた。

『どうぞ。会社には連絡したんですか?』

彼は思い出したようにスマートフォンを取り出し、会社に連絡をした。
「家族が急病」と伝え、1日休みを取ったようだ。
独身でひとり暮らしのくせに。

『ありがと、いただきます。』

それからストローを口にしてアイスコーヒーを吸い上げていく。
この感じだとお腹も空かないのだろうなと思われる。

『まだ父は来ませんから、どこかで時間を潰してきてはどうですか?』

『ここにいちゃダメ?』

見上げてくるその顔は懇願の色をしている。
そんな顔をされては断れないでしょう。

『…、わかりました。ねえ、今焼きあがったものがあるんです。食べて貰えませんか?』

『、』

『クロワッサン。焼けるの。』

『…、食べる。』

喉が鳴ったのを、僕は聞いたからね。

『よろしい。』

彼に「待て」をして僕は工房に戻る。
ちょうどブザーが鳴って、クロワッサンが焼き上がる。
焼きたてのクロワッサンをふたつ皿に乗せ、それから商品の分を冷ましにかける。
渡そうと思っていたラスクも一緒に彼の元へ運んでみた。

『お待たせしました。』

僕の作るクロワッサンは基本的なものだ。
外はカリッとして、中はふんわりしている。
他の店よりバターは控えめかもしれない。
時間が立った時にしっとりし過ぎない、軽いままのクロワッサンだ。
そのまま食べても、軽く温め直しても勿論美味しい。
作った本人はそう思っているけどね。
バターはあっさりめのものを使っているから、食事として食べてもいいとも思う。

『いいにおい…、』

彼が呟いた。

『ねえ、ラスク、残りだけど。食べてもらいたくて。』

『、いいの?』

『うん、あなたなら食べてくれると思ったから取っておいたんですけどね、』

『食べる。食べるよ、』

『ふふ、』

『チャンミン、』

『はい、』

彼はまた泣きそうな顔をして僕を見上げる。
そして腕を伸ばしてくる。
サラリーマンらしく、腕時計の日焼けの跡がついた腕だ。
腕を伸ばし、目で抱き締めさせろと訴えてくる。
怒ったり甘えたり、忙しいひとだな。
そして今は、なにかに怯えているようにも見える。

1歩近付いて彼の腕の圏内に入る。
すると腰に腕を回して、座ったままだから僕の胸の下ぐらいに顔を埋めてきた。
背中に腕を回してみる。
大きく呼吸をしているようで、肺が膨らむのが背中から伝わる。

彼は黙ったままだった。
店の中にはバターの香りが広がる。
僕も一緒になって、少し多く空気を吸い込んでみる。

ああ、空気が美味しい。
バターの香りがして、とても甘い。
丸くて、黄色くて、軽くて、優しい香りだ。
美味しい。
豊かな香りだ。
そう、そうなだ。
小麦もバターも、豊かさを表すものだよね。
だから心が豊かになれる。
優しくなれる気がするんだよね。

『ユンホさん、』

『もう少し、このまま、』

『はい。ああ、でも、お客様がいらっしゃいます、』

『じゃあ、キスして、』

『、』

『はやく、』

『…、』

好きとか、嫌いとか。
付き合ってるとか、いないとか。
そういう話は、好きだとしかしていないじゃない。

でも、たぶん、してあげた方がいいんだと思う。

それは僕が、そうしてあげたいと思うから。

キスをしてあげた後に、彼がなにかに安堵できるなら、それでいいと思う自分がいる。

いや、単純に、してあげたい、そう思う。
そういうことにする。


腰を折って、僕の方からキスをした。
重ねるだけの、軽いやつ。

すぐに離して、僕は工房に戻る。
お客様がやってくる。
彼は僕を目で追っていたようだったけれど、お客様のお会計をしている時に、クロワッサンを食べるサクサクという音が聞こえてきた。

軽くて甘い音がした。

その音で、胸がいっぱいになる遅い朝。


『いらっしゃいませ。』

そして、

『ありがとうございました。』

その繰り返しで満たされていく僕の日常。


ユンホ、大丈夫です。

毎日は、毎日をよくするために繰り返し訪れるんだから。

大丈夫。
なんの根拠もないけれど、きっと大丈夫。

友人以上になりかけている僕達なら、もっと明日をよくしていけると思いませんか。


クロワッサンを頬張る可愛い顔。

その顔が僕を見て、目で微笑んでみせてきた。












続く
(∵)もう少しで終わりだヨ
(´◉J ◉`)っ🥐
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