昼食をとった後、約束のジャムを持たせて僕達は別れた。
かくして僕達は友人になったわけだが、新たに見えたもうひとりの彼の姿には後から驚きがじわじわとやってきた。
変だよね。
おかしいよね。
まるで幽霊でも見たような気分になってきたものだった。
元々僕はそういうものも見える方でも信じる方でもなかったから、だから前世だの言われても飲み込めなかったのだろう。
けれど、こうして目の前にしているひとと同じ顔をしたものを目にしてしまうと、そうも言っていられないようだ。
呑気に挨拶とかしてる場合じゃなかったことに、ひとりになってから慌ててみる始末。
まあでも、かっこいいよね。
どれだけ大昔のひとかはわからないけれど、今の彼よりも襟足が伸びているような髪型で、それもまたイケメンな感じだった。
新聞記者をやっていたという初代ユンホなのだろうか。
そして映像の断片で見る僕はあまり変わりがない気がする。
また現れたりするのだろうか。
彼は、初代チャンミンを見たことがあるのだろうか。
そんなことを考えながら仮眠の時間を迎える。
何度も寝返りをうって、胸のなかに残る明るい気持ちと興奮の余韻を感じていた。
寝たいのに、眠たいのに、彼の顔や彼の言葉が僕のなかをぐるぐると回って行き来している。
―――すごくいい顔をしてるんだ、楽しいと、嬉しいと、愛おしいを混ぜたような顔で、輝いてる。
自分のことをそんなふうに言ってくれるひとは、祖父母や両親ぐらいしかいない。
今となっては、大人になり過ぎている僕に両親だってそんなこと言わないだろう。
祖父母が生きていたら、今でも甘やかして言ってくれたかな。
だから、彼だけだ。
僕の仕事を見て、感じて、言葉にしてくれるひとはあなただけ。
―――友達から、お願いします。
『ふふ、』
大人になってからできた、新しい友人。
少しだけ変な友達。
生まれ変わっても好きなひとを探し出してしまう程の情熱的で変なひと。
友達から始まって、本当に結婚しちゃったりするのだろうか。
『まさかね、』
なんだかもう、笑いが止まらなかった。
考えているだけで、楽しくなってしまったようで、ハイなまま眠りについた僕だった。
それからまた、僕達は朝7時に顔をあわせる日が続いた。
8時頃までいる日や、9時前まで滞在する日など様々だったけれど、彼はいつもバゲットとスコーンを買って食べていく。
雨の日も、晴れた日も、どちらでもない日でも。
それから彼が昼間立ち寄れる日は、一緒に遅い昼食をとることもある。
あの日初めて家に招いた際に個人的な連絡先を交換した。
彼からの連絡量が結構多めだからまとめて返信することが多いかな。
専ら彼からのお誘いが多い。
「今度はごちそうさせて」と言う。
だから僕も「次の休みは僕が――」となる。
デートは僕の家でだったり、近くの飲食店だったり半々かな。
外で食べると必ず彼がご馳走してくれる。
いいよって言ってるのに、その辺ってすごく頑固で譲ってくれない。
「いつも作って貰ってるから」と言うので甘えてみている。
「独身貴族だぞ」って言われるから「実家住まいの独身貴族がここにいますけど」って返してあげる。
すると彼は大きく笑って僕の肩を叩くのだった。
これまで彼が愛した「チャンミン」の話を聞くこともあった。
彼の気遣いがよくわかる時間だったと思う。
彼は目の前にいる僕をそれ以下に見ているのではないときちんと言葉を選んで伝えてくれる人だった。
大変だと思う、彼はきっと今でも過去を愛しているだろうし、戻りたい瞬間があるからこそこうして今を生きているのだろうから。
だから、それ以上に僕自身に新しい映像が見えてこないことに焦れったさを感じている。
もしかしたら、彼は僕がひとつひとつ思い出したり、また何かを見たりするのを辛抱強く待っているのかもしれないね。
彼は言葉以上にとても大きく深く僕を見ていてくれているんだなと思った。
僕の知らない、僕の過去だけを愛していたのなら、僕は最初から彼に何も反応をしなかっただろうなと思う。
お客様として話しかけてきた言葉のなかにも、今を生きる僕の姿をきちんと感じることができていたということだ。
そうでなければ、お客様以上の会話をしようとは思わなかっただろう。
過去と今の「僕」を、どちらも捉えて見ようとひてくれていた。
『愛されてるなあ、』
窓の外を眺めながら無意識に呟く。
午前7時、開店の時間。
『おはようございます、いらっしゃいませ。』
開店時間同時に来てくれたお客様達を迎え入れ、買われていくバゲットやブール達を何度か見送る。
これからこの人たちのエネルギーになりにいく可愛い我が子たち。
改めてそう思えたのも、彼の言葉のおかげだった。
笑顔が増えるきっかけをくれたひとになったわけだね。
『おはよう!』
『おはようございます、』
おはよう、ともだち。
スーツのジャケットはもう着ていない。
梅雨は明けたのか、まだなのか。
雨は降っていないけれど蒸し暑い朝だった。
『いいにおい、めっちゃおちつく。』
彼は言いながらトレイを持って、バゲットとスコーンを取ってくる。
会計をして、バターやジャムを用意して温める。
『今日はアイスコーヒーなんです、いいですか?』
『うん、嬉しい、ありがと。』
多分使うと思ってガムシロップも自宅から持ってきた。
結露しないグラスも自宅から持ってきた。
彼は新聞も読むしパソコンも開くから、水滴がたまらない方がいいだろうと思って。
『それでね、今日はちょっとしょっぱくして食べませんか?』
『えー、なになに?』
『明太子、塗って食べませんか?』
『まじで?お願いお願い、それ食べたい、』
『わかりました、お待ちください。そういえば、』
『うん、』
コーヒーをグラスに入れながら両親からの話を思い出した。
トレイにグラスを置き、調理して持ってきた明太子のクリームをバゲットに塗る。
『バターナイフ、すごく調子がいいです、ありがとうございます。』
『へへ、よかった、ありがと、うれしい。』
『それで、今まで使っていたバターナイフが折れた日なんですけどね、』
トースターにバゲットとスコーンをセットして焼く。
『母は箸を、父はヘアブラシを折ったと言っていました。』
『え?』
『うん、不思議ですよね、僕も含めそれらを折るようなことは何もなかったのに、手にして使おうとした瞬間に折れたそうです。』
『…、』
『すごいですよね、ちょっと鳥肌立ちました。』
カット台のパンくずを片付け、温め終わったバゲット達を皿に移してトレイをイートインスペースへ運ぶ。
明太子スプレッドは、明太子にマヨネーズとバターを加えて練り合わせたものだ。
それに火が通り、小麦の香りとマヨネーズの香りが仲良く手を繋ぐ。
彼は何かを考えているらしく、言葉数は少なかった。
『どうぞごゆっくり。』
『うん、いつもありがと、』
それから工房に戻ろうとした時、不意に手を掴まれた。
もちろん彼の手だった。
『あのさ、』
『はい、』
『なんにもない?火事になりそうだったとか、事故に逢いそうだったとか、』
『いえ?多分ないと思います。家族からも聞かなかったので、』
『うん、それならよかった、よかった…、』
2度も言葉にして安堵するその顔に、この時はまだ意味がわからなかった。
質問の意味もね。
他のお客様がいない時に、お代わりのコーヒーを注ぎにいったりして彼に大袈裟に喜ばれたして、僕は僕でささやかなひと息をつく。
いい気分転換になってることに気付くと、ひとは変わるものだなと自分に感心したものだった。
午前9時前。
彼が立ち上がった。
『チャンミン、いってくる。ごちそうさま。』
『はい、ありがとうございました。』
トレイを下げてカウンター席を拭く。
彼は神妙な面持ちで僕を見た。
それから周りを一瞥して、また僕に視線を戻す。
また手を取ってきた。
『…、チャンミン、好きだ。』
『、』
それを言うために、周りに誰かいないか確認したのか。
それから手を引いて、抱き寄せられる。
その手にはダスターが握られているままだ。
彼の腕の中に入り、胸で受け止められる。
僕の方が身長が高いのにな、なんて無粋すぎるものが頭を過ぎる。
『、』
その無粋さの次に、新しい映像が流れ込んできた。
僕がいる。
それは多分「初代チャンミン」の僕だ。
「気をつけて、」
誰かを送り出そうとしているらしい。
「ありがと、いってくる。」
ああ、この声はこのひとだ。
「初代ユンホ」しかいない。
同じ声だもの。
同じ発音だし。
それは変わらないんだね。
それから初代ユンホが初代の僕の手を取る。
今と似たような感じだね。
シンクロしているのだろうか。
シンクロ。
「チャンミン、好きだ、愛してる。」
真っ直ぐと初代の僕を見つめる顔。
「ええ、僕もです。」
やっぱりそういう仲だったんだね。
ふたりは笑って見つめあって、キスをした。
彼の手が僕の頬を引き寄せ、導かれるままに距離を縮める。
伏し目がちにして唇が重なる瞬間を見た。
まるで今この瞬間、僕がされているように、それはそれは生々しい映像だった。
『チャンミン?』
『、』
鮮やかな映像の断片が終わる。
彼の声に引き戻される。
『今、』
『うん、』
『また、遠い昔の僕達を見ました。』
『、』
思わず自分の唇に触れて確かめてしまう。
されたのは僕ではないのか。
そう思ってしまう程に、鮮やかな映像だった。
『どんな…、』
『はい、その、』
『うん、』
『キスをしていました。』
『、』
そのままのことを彼に伝えたら、急に顔が熱くなった。
顔も、目の周りも、耳も、胸も熱い。
風邪を引いた時のように熱い。
見たことをそのまま伝えただけなのに、物凄く顔が熱い。
『チャンミン、』
『…、』
『なんて顔してるんだ、』
『え?』
『ごめん、』
『、』
彼が何故か謝ったのか考える間もなく、彼の手が僕の頬に伸びてきた。
引き寄せられる頬。
近づく鼻先。
触れてしまった唇。
睫毛さえぶつかりそうなほどの距離。
伏し目がちの目。
『、』
重なる唇。
入ってくる舌。
シンクロ。
見たままの映像が、現実になってしまっている。
僕はどうしてしまったのだろう。
あの映像を見たことがそれ程ショックだったのだろうか。
全く動けないでいる。
手にしていたダスターがぽろりと床に落ちる。
力が入らない。
抜けてしまったきり、入ってこない。
それ程に、彼から与えられるキスは心地よかった。
激しいくせに、心地いいだなんて。
『好きだ、』
キスの合間に吐息と共に漏れてきた声。
『ここで見つけた時からずっと、好きだった。』
『、…ここで?』
ずっと昔からじゃなくて?
『ここで見つけた時から、「俺」に振り向いて欲しいって、思ってた。』
思い出して欲しいじゃなくて?
『前のことを綺麗に切り離すのは難しいけど、』
そうだよね。
僕は今まさに色んなものが入混ざってしまっている状態だもの。
ああ、でも、彼は僕を見つけた時がそうだったんじゃないかな。
僕を見つけた時はやっぱりその昔の僕だって確かめたかったろうし、同じものを求めるだろう。
そうでしかなくても仕方ないよね。
今の僕がこうなんだから。
『でも、今こうしてものすごく可愛い顔をしてるのを見て、』
可愛い?
全然わからない。
『俺は、目の前にいるチャンミンが好きなんだって突き動かされるみたいに、思ったんだ。』
スイッチが入ってしまった的な、何かかな。
でもそれは僕も同じなのかもしれない。
好きか嫌いか。
後者ではない。
前者だ。
そういうことだ。
それ以上の何かはまだわからない。
でも、感謝はしている。
大切なことを教えてくれたひとだから。
僕が満たされて働いていることを教えてくれたひと。
『チャンミンが、俺にとっても大切な思い出を見ることができたのもすごく嬉しい。』
『はい、』
思い出。
そうだよね、彼にはそういうことになる。
僕はそうはまだ思えないけれど、彼の大切なものを見ることができたとは思える。
『ありがと、チャンミン、ありがとう。』
『…、』
泣きそうになりながら、繰り返すその言葉って、すごくずるい。
『朝からごめん、でも、好きなんだ。』
そうだよ、朝からキスされてしまったよ。
そうか、このひとはいつのどんな僕も好きなんだね。
昔も好きで、今もちゃんと好きなんだね。
凄いね。
人類はどの世の中にも数えきれない程いるというのに。
へんなひと。
そしてそんなひとの言葉に、
『はい。』
そう返しちゃってる僕もだいぶ変なひとだ。
『え?』
え?じゃないよ。
はい。って言ってんだよこっちは。
『多分、今の僕も好きです、あなたのことが。』
『え?』
いや、だからね。
『そういうことです。』
そういうことだ。
『え?』
その顔、その顔だよ。
きょとんてしてるその顔。
今から紙に描いてあげようか。
絶対上手く描けると思うよ。
描かないけれど。
『僕も急に、あなたにドキドキできるようになったようです。』
『、』
いきなり見せる映像がそういうシーンていうのもずるいよね。
『…、もう、何がなんでも、チャンミンのことは俺が守るから。今度こそ、』
『はい、期待しています。』
ほら、仕事の時間ですよ。
働きましょう。
それで食べているのですから、あなたも、僕も。
彼は慌てるようにして、自分がしていた腕時計を外した。
『これ、つけてて。ずっと、つけてて、』
ガチャガチャとベルトの部分の音を立てて僕の腕に付けようとする。
慌てる手を落ち着けさせて、いつもと逆の腕にだったけれど装着してもらった。
『とりあえず、お守り。効くかもしれないから。』
それがどういうことかわからなかったけれど、彼は最後にまたひとつキスをして、お客様が来るギリギリまで続けていった。
今夜ちゃんと話をしようと言って、彼は店を飛び出していった。
残された僕は腰を抜かし、入ってきたお客様に心配されて騒がれる始末だった。
そろそろバターを使ったパンが焼きあがる。
だから立たなくてはいけないのに、後から後からドキドキが襲ってきて、お客様へのお釣りを多く渡して突き返されてしまった。
ひとの舌って、おそろしいと思った朝だった。
重たい腕時計がとてもとても憎らしかった。
続く
(∵)フッ
(ฅ´◉J ◉`)ฅバッケローーベロイレンナーー
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