約束の定休日。
バゲット数本分の生地を仕込み、午後2時の焼き上がりに合わせて作った。
バターといちごのジャム、それからクロテッドクリームを用意した。
昨日母が焼いたスコーンが残っていて、それも一緒に食べてもらうことにした。
閉店している店で誰かをもてなすのは初めてかもしれない。
そういえば、祖父母は定休日に、友人や常連のお客様を自宅に招いて茶会のようなものをしていた。
その時もパンもスコーンも焼き菓子も用意していたんじゃなかったかな。
休みの日までパンを作って笑っていたような祖父母だった。
僕の場合、友人らはパンや菓子類より、どちらかというとアルコールの世界だ。
だからなんとなく、知人友人を招いて振る舞うことはしないし、したことがない。
両親の友人らにしたことはある。
そう思うと、僕の交友関係はこの仕事が順調であればあるほど遠退いていく気がしてきた。
それでも、なかなか寝かせてくれない酵母や粉の相手をしている自分にも満足している。
友人らが元気ならそれでいい。
同窓会なんかあるなら行ってもいい。
その程度。
この店を任されて数年。
祖父母の味から遠ざかるのが怖かったのもあって、手を抜くということを何ひとつしてこなかった。
出来なかった。
いつもと違う動きをするのが怖かった。
避けていた。
休みの日は翌日の生地の為に自分が休んで、そして酵母と生地をまた混ぜて触れている。
翌日パンを売るのなら、18時間寝かせてあげなきゃいけない子達がいるからね。
今日は雨が降っていない。
晴れてもいないけれど、悪くない気温だ。
約束の時間から約30分前。
温めたオーブンに、成形した生地を入れる。
スチームで焼き上げる。
今日の焼き上げる時間は26分。
さあ、彼女達が焼き上がるのが先か、今日のお客様が来るのが先か。
どちらかな。
今日のクロテッドクリームは、これも取り寄せているお気に入りのものだ。
バターとは違って塩分がない。
生クリームより硬さがあって、バターよりあっさりしている。
だからついたっぷりと塗ってしまう。
体型のことが頭を過ぎる食べ物のひとつ。
舌触りがサラサラしていて好きなんだ。
バターを味わいたい時はこっくり深い甘みがあるものを選び、クロテッドクリームはあっさりしたものを選ぶ傾向にあるかな。
疲れた時にバターを感じたくなるかもしれない。
こうして自分が食べるものに関して、けっこうお取り寄せだとか通信販売に結構な金額をかけていることにも気付く。
他に趣味があるわけでもないので、よしとしようではないか。
無駄にクロテッドクリームの瓶の表記を眺めていると、窓を叩く音がした。
こちらを覗いてくる休日のリーマンが現れた。
店の入口は閉まっているので、僕は工房の裏口から出て外へ回った。
スーツ姿ではない彼が立っている。
いやはや、休日もだいぶイケメンなようだ。
黒のサマーニットに細身のデニム。
着ているものも高そうで少し腹が立つ。
工房の裏口から彼を招き入れる。
イートインスペースは狭すぎるから、今日は工房の調理台で失礼することにした。
彼は工房の中を忙しそうに首を動かして眺めている。
『珍しいですか?』
『うん、いつもここまでは見られないじゃん?』
見えてしまうけれど、見えないようにはなっているのかな。
『本当は作っているところとか、見てたいなって思うけどね。』
それは嫌だな。
裏の仕事はそれらしく見せるようなこともなくしていきたい。
やましい事があるわけでもないけれど。
見られて、食べて、恥ずかしいものは何ひとつないのだから。
『あ、これ、タルトのお返し。』
『、』
彼が渡して来たものはローストビーフの塊だった。
近所の美味しい肉屋のものだ。
家族で年に1度ぐらい贅沢しようといって買って食べる程度だ。
それをあのタルトひと切れで返すなんて、やはり独身貴族なのだろうか、油田王なのだろうか。
『いいんですか?』
受け取ったら返さないぞ、と付け足したい。
『甘いものとかは、チャンミン作る方の人だしなあって思って。』
『ありがとうございます、お腹空いてますか?』
『うん、チャンミンのバゲット食べたくて、』
『じゃあ、これと一緒に食べましょう。今日は車ですか?』
『ううん、いつも電車。』
『飲みます?』
『、』
『ワインならありますよ。』
『いやでも、』
『じゃあ僕だけいただきます。』
『飲む。』
『ふふ、そうしましょう。』
なんだか今日は、僕の方が強いみたいだ。
最近彼には驚かされるというか、調子を狂わされていたからね。
驚く顔を見るのは少し楽しい。
あまり座り心地がいい椅子ではないけれど、座ってくれるように促し、僕はローストビーフをスライスした。
冷蔵庫に何かないか物色する。
野菜はないけれど僕の心を満たす為に置いてあるチーズがあった。
タンパク質と脂質ばかりなおもてなしだがよしとする。
もてなすことに慣れていないのを全て理由にしようと思う。
彼は椅子に座り、僕が食べるまでの支度をしているところを大人しく眺めているようだ。
ここでブザーが鳴った。
バゲットが焼けたようだ。
『危ないから、近づかないでくださいね。』
『、』
注意してからミトンを手にして、オーブンから型に入って焼かれたバゲットが乗っている天板を取り出した。
彼が立ち上がる気配がした。
普段の商品なら冷ますのだけれど、今回は彼のリクエスト通りに焼きたてのものを食べてもらおう。
しかし、見過ぎだよ。
凝視しているレベルの視線を感じる。
バゲットを1本掴み、ブレッドナイフでザクザクとカットしていく。
『、』
彼の息を飲む音がした。
酵母の香りを含んだ湯気が立ち上る。
今日も彼女達の優しい香りがした。
きつい性格の酵母を使うと、どうしても起こした時の匂いがそのまま焼き上がりに残ってしまうんだ。
今交際している彼女達はそんなこともなく、僕を甘やかすように優しい。
そうだね、今日は彼女達を彼に自慢する日にしようか。
カット台の上に散らばるクラスト。
彼はほんの少しだけ足を動かして歩み寄り、手を伸ばしてきた。
クズになったクラストの欠片を手に取り、口に含む。
『…、』
何も言わないのなら、カットしたクラムが多い部分を食べればいいのに。
まだ湯気が立つクラムがメインの一欠片を彼に渡す。
彼はそれを受け取うとしたが、すんでのところで止まってしまった。
『どうしました?』
そう聞いている自分のなかにも、既視感のようなものを感じた。
何かで見たような、感じたような、そんなものを感じる。
これはどういうことなのか。
『ありがと、』
彼は控えめな声色でバゲットを受け取り、口にした。
色んなことが気のせいか。
バリバリとクラストを噛む音がする。
彼は目を閉じて食べていた。
そういえばいつもイートインスペースで食べる時は横顔か背中ばかりだった。
正面から見ることはほぼない。
ひと口、ひと口、噛み締めるように食べる。
この人はやはりかなりのパンマニアなのかもしれない。
なんてね。
『…、これだ。』
『え?』
彼は目を開けて、僕を真っ直ぐ見ていた。
僕も食べようとして口を開けたところだったから少し恥ずかしい。
何も塗っていない焼きたてのバゲットを噛む。
パンのなかに含まれている蒸気が美味しい。
『やっぱり、これなんだ、』
『…、何がですか、』
彼が呟くように繰り返した。
そして、小さく頷く。
『俺がずっとずっと、…ずっと、食べたかった味。温度。』
「ずっと」とはどのくらい前の話なのだろう。
もしかして、祖父母の代からのお客様だったのだろうか。
だから今彼が口にした味が、その当時祖父母が焼いたバゲットに似ていたとか。
そんなところか。
この時は僕が自己完結して、話を広げることはせず流してしまった。
スライスしたローストビーフを1枚食べる。
『美味しい。』
安定した味だ。
そしてワインボトルを開ける。
今日は浅い味の赤ワインだ。
グラスを持ってきて、ひとつずつ注いでいく。
彼は僕の動きを静かに眺めていた。
いつもはあんなに話しかけてくるのに、「会う」という願望を叶えてやると気が済んで大人しくなったのか。
それならそれでいいけれど。
『どうぞ、』
ワイングラスを渡す。
『…、』
黙って受け取り、ワインの色を見つめるように視線を向けていた。
なんだか静かで、今日は今日で別な感じに調子が狂う。
『パンの話し、しましょうか。』
僕から話を切り出す始末だ。
本当に調子が狂っている。
休日に会うからそういうことになる。
ちなみに定休日は土曜日だ。
土曜日に休む飲食店てあまりない。
平日は、平日働きに出る人のエネルギーを用意する理由で祖父母が休みなく開けていた。
日曜日は休日のどちらかを開けて休日にしか買いに来ることができない人に対応しようと決めた。
そして休むと決めたのが残りの土曜日だった。
あまりないと思う。
平日どこか1日休む店は多いと思うけれどね。
そして彼がやっとワインを口に含んで唇を湿らせ、話を始めた。
『チャンミンには、忘れられない味ってある?』
もちろんある。
祖父母の焼いたパン、ひとつひとつが全て当てはまる。
『ありますよ。この店の創業者の味全てです。あの、僕の代より前からここに通っていたんですか?』
チーズをひとつまみ掴む。
浅いワインにはぴったりの、クセが少ないタイプのカマンベールチーズだ。
『ううん、チャンミンの代からしか来ていないんだ、ここには。』
ここには?
やはりこの人は色んな店を渡り歩くパンマニアだったか。
『チャンミンを見つけて、だから来るようになった。』
見つけるとな。
さて、横道にそれるような要素がたくさんあって何から考えればよいのか。
開封したばかりのカマンベールチーズは美味しい。
硬くならないうちに食べたい。
下の奥に残るうっすらとしたカビ感を、浅い風味の赤ワインで流す。
美味しい。
『チャンミン、俺ね、ずっと昔、チャンミンが焼いたパンを食べたんだ。』
『はあ、』
それはいつのことだろう。
30代の男が言うずっと昔とは何年前になるのだろう。
まだ学生だった頃、祖父母の間に入ってパンを作りながら遊んでいた頃のことか。
何かのきっかけで僕が遊び半分で焼いたものを食べることになったとか。
有り得なくもないな。
祖父母は子どもに弱かったし、覗いていく子どもに向かって手招きをして、分け与えていた記憶もある。
だったら祖父が焼いたパンを彼は食べたのではないだろうか。
子どもの僕が作ったパンなんてパン以下だったろう。
パン以下のパンが何かもわからないけれどね。
彼は続けた。
『チャンミンは俺にパンを食べさせてくれた記憶はない?』
『いえ、あなたが買いに来るようになってからのことしかわかりませんね。』
『だよね、』
『はい。』
彼は少しだけ困ったような、寂しさを含んだような顔で笑った。
今日は色んな顔をする日のようだ。
その顔に胸が痛むのは気のせいだろうか。
彼はバゲットを口にして、噛み締めるようにゆっくり口を動かした。
ゆっくりゆっくり、ゆっくり。
クラムを噛む音が聞こえる。
聞こえないけれど、聞こえる。
彼の口の中で、温かい酵母の香りがめぐっているのが分かる。
気がする。
彼は咀嚼をしながら再び話を始めた。
『ずっとチャンミンのことが好きだったんだよね、』
『いつからですか、』
『3回ぐらい生まれ変わる前から、』
『あーはいはい、』
やっぱりこの人は変な人に認定だ。
温かいバゲットと一緒にカマンベールチーズを食べる。
するとチーズが柔らかくなって風味もとろける。
たまらなく美味しい。
それなのに目の前の休日リーマンはバゲットの欠片を手に持ったままぼんやりとしている。
会いたいって言ったから場を設けたのに、意外という言葉を上回る程喋らない。
『他の店に食べに行ったり、お気に入りはあるんですか?』
だからなんで僕が話を振らなくちゃいけないんだ。
『ないよ。チャンミンのだけ。』
『ありがとうございます。』
『ずっと、チャンミンのだけ、』
『…、』
彼は何が言いたいのだろう。
これも僕のバゲットを見つけた時から「ずっと」という意味だろうか。
それ以外に何がある。
そういうことだ。
『あの時代のもそう、焼いてくれてたから、それだけでよかった。誰のでもなくて、チャンミンのがよかった。』
『、』
さて、どうしたものか。
彼は思った以上に独特の世界を持ってしまっているイケメンだったか。
『手を、離さなきゃよかった。』
『え?』
彼の手にはまだ食べかけのバゲットがある。
ワインもほとんど飲んでいない。
チーズもローストビーフさえも。
だから僕も食べにくいから手が進まない。
『熱くても、離すべきじゃなかった。』
『、』
この時の彼の顔は、後悔や懺悔の色がとても強く感じられたんだ。
何が熱いのか。
何を言っているのか。
わからない。
『離してしまった手が、自分の気持ちが足りなかったようにしか思えなくて、悔やんでも悔やみきれない。』
『、』
彼はバゲットを持っている手と反対の手をゆっくりと開いた。
彼の手のひらも初めて見るのではないだろうか。
今まで気にしたこともなかった。
そして開かれた手のひらには、火傷の痕のようなものがあった。
ますますわからない。
僕は目の前で火傷を負った友人知人なんていなかったのだから。
『だから、チャンミンを見た時、大きな傷がなくてよかったなって思って。顔とか、特に、』
『…、』
わからない。
全くわからない。
この人は、もしかして僕を誰かと間違えているのではないだろうか。
彼はバゲットを口にした。
噛んで、目を細めて、飲み込んで、瞼を閉じる。
『どの時代のチャンミンも、突然俺の前からいなくなってしまう。』
瞼が震えているのは気のせいかな。
気のせいだったらいいな。
『だから、今回も早く捕まえて、早く繋いでおかなくちゃって、焦ってる。』
ゆっくりと開かれる瞼。
覗く瞳。
僕を真っ直ぐと捉える。
『生まれ変わる度に出会って、別れて、失う。俺達は、そういう運命のもとに輪廻するみたいだね。』
輪廻。
運命。
いやいやいや。
待って、何言ってるかちょっとわからない。
でも、あまりにも彼の目が真っ直ぐで真剣すぎるから、僕は肩ばかり後ずさって視線が外せないままでいる。
『今度こそ…、もうお前を失いたくない。』
輪廻。
転生。
火傷の痕。
なんだか少し、頭が痛む。
続く。
(∵)リンリンリンネ~
(´◉J ◉`)困る…🧀
にほんブログ村