変な宗教への勧誘だったりするのか。
いや、まさかね。
だったらもっと早く勧誘していただろうしね。
何より、彼の悲しいような苦しいような、そして後悔ばかりを抱えているような表情に、嘘はないんだろうなとも思わせる。
そうなると、僕はどうしたらいいのだろう。
じゃあ僕はもうあなたとずっと一緒にいますね、なんて言えるわけがないし、何を根拠に安心しろと言えるのかもわからない。
あの頃とか、あの時代とか、それはいつどれだけ前の話なのか。
今にも泣いてしまいそうな彼を見て、何をどう声をかけてやればいいのかわからないでいる。
僕を見つめていた後、残りのバゲットを口にした。
それからもうひと切れ手にして、黙って食べている。
悪いひとでないと思う。
悪いひとでは。
でも、少し変だとは思う。
僕自身も少し変だけど、このひとも変なひとだと思う。
パンを食べて泣きそうになったり、何やら壮大な物語を話し始めたり。
物語。
そうだね、彼と、何故か僕と、バゲットの物語。
彼が言う、「いなくなってしまう」というのは、死んでしまうという意味なのか。
すると、僕は彼と出会う度に死んでしまうのか。
そして彼は後悔していると言う。
手を離さなければ、と言った。
離さなかったら僕は生きていて、彼と寿命を全うして輪廻することもなかったのか。
いや、もう僕の頭の中で綴ることはできない。
キャパオーバーだ。
そして彼が言いたいことを想像しようとすると頭が痛む。
ズクズクと疼くような痛み。
さて、どうしたらこの休日のイケメンリーマンは元気になってくれるかな。
『色んな不安がある。でも今、チャンミンが焼いたパンを、同じ味を感じることが出来て嬉しい。』
『…、』
あとはどんな不安があるのだろう。
そして彼はゆっくり小さく微笑んだ。
『美味いなぁ、本当に、おいしいよ。』
どこか遠くを見て、誰かに呟いているみたいだった。
ここにいる僕ではなくて、もっと違うところにいる違う誰かに言っているみたいだった。
僕は立ち上がり、彼に背を向けるように冷蔵庫へ向かった。
今度はまた、胸が痛むような気がしたから。
冷蔵庫からサワークリームと粒マスタードを持ってくる。
彼はもそもそと口を動かし続けながらバゲットを食べ、僕を目で追っていた。
彼のもとへ戻り、器にサワークリームと粒マスタードを取って混ぜ合わせる。
それをローストビーフに乗せ、更にバゲットに乗せる。
『どうぞ。』
『…、ありがと、』
ワインを飲み、同じものを自分用に作り頬張る。
甘めのローストビーフにさっぱりとしたサワークリームがちょうどいい。
相変わらずタンパク質ばかりだ。
さて、彼の話しは聞くだけ聞いておこうかな。
いっそのこと、彼の気が済むまで全部ね。
『ユンホさん、』
『うん、』
話しかけたら齧っている瞬間で、サワークリームが皿へ落ちたのを見た。
タイミングが悪かった。
素直にごめんなさいと頭の中で念じる。
彼は落ちたクリームをバゲットで掬ってまた口に運んだ。
『聞かせてください、さっきの話。』
『、』
『酔ったついでに、全部聞きたいと思います。』
『…、いいの?』
『ここでお開きでも僕はかまいません。ローストビーフは我が家で美味しくいただきます。』
『ふ、…はは、うん、じゃあ聞いて?』
『はい、どうぞ。』
取り皿を持ってきてローストビーフやチーズを彼の皿に盛り付ける。
彼はローストビーフを乗せたバゲットを食べ、ワインを飲んで静かに息を吐いた。
その一連が、なんだか力をつけて大仕事をする時のようにも見えた。
壮大な物語を語るためのエネルギーを得たところか。
僕はチーズとワインをひと口ずつ楽しんだところで彼がワイングラスを置いて語り始めた。
『本当に1番最初のチャンミンとの出会いと別れが、全ての始まりだったんだと思う。』
彼が語る僕というのは、その時代もパンを焼いて生計を立てていたようだ。
パン屋の僕に新聞記者だった彼。
彼は世の中を見て、真実を掘って、正しいことを街の人達に伝える仕事をしていたようだ。
その同じ街で僕はパンを焼き、人々の生活に必要なものを作り続けていたのだそうだ。
そして彼は僕に恋をするように出会い、僕も彼に応えるように愛し合ったのだそうだ。
『チャンミンはね、すぐ熱くなる俺を毎日毎日なだめてくれるんだよ。「兄さん、今夜は飲もうよ」そう言ってさ、今日みたいに。』
『、』
僕は別に落ち着かせようと思ってワインを出したわけじゃない。
自分が飲みたくて、美味しいローストビーフを食べるなら少しでも贅沢にしたかっただけだ。
相手が飲まなくても自分だけ飲もうとしたようなやつだ。
まあでも、その当時の彼の仕事は熱くなるのも少しだけ分かる。
いつの時代も真実を伝えようとすると邪魔をする存在はいるのだろうから。
古代から近代、そして今現在の世の中でもね。
彼はそれらと戦うように自分の仕事をしようとしていたのかもしれないね。
今は朝の2時間を優雅にパンを食べながら過ごしているようだけれど。
今でも働く上での彼は熱くなることがあるのだろうか。
それとも、働き過ぎた人生は飽きたとか。
『こうして結局俺の話をきちんと聞いてくれる感じはずっと変わらない。』
そうだろうか。
きちんとなんて聞いていない。
これまで散々バッサリとあしらってきたし、今日だってもてなすような場所ではないもの。
僕の仕事場で、粗末な椅子に座らせている始末。
『なにより、あの頃も今も、バゲットの味が変わらない。多分、チャンミンの真面目な部分と優しさって何ひとつ変わらないで生まれ変わっているんだろうね。』
彼はまたどこか遠くを見つめて呟くように言った。
きっと、遠い昔の「初代チャンミン」かな。
僕は真面目だろうか。
パンはともかく、誰かに自分のことを評価されたりしたことはあまりなかったからよくわからない。
融通がきかないのは自分でも理解はしているけれど。
だから休みの日だって翌日の仕事の仕込みをすることしかできないんだ。
『チャンミンは、例えばね、誰かを助けるって力を入れて生きるようなタイプではなかった。』
ああ、それはわかる。
そんなふうにはきっと生きられない。
『どちらかというと、俺がそうだったかな。』
それもなんとなくわかる気がする。
わかる気がするだけだけど。
『チャンミンは誰かの毎日をさりげなく支えるような、そんな人だった。』
彼は続けた。
『美味しいパンを心を込めて作って、街の人が今日を生きるためのささやかな力になればいいって、そう言っていたんだ。』
『、』
それを聞いた瞬間、頭の奥が疼いて軋んだ。
頭蓋骨なのか、どこかの血管なのか、軋んで揺れた音がした。
気のせいかな。
そして彼が言っていることは、今の僕のパンを作る理念そのものでもあった。
話したことなんてあっただろうか。
いや、ないはずだ。
今日やっとあの定番の会話以外のものをしているのだから。
さすがに動揺を隠せないかもしれない。
少しだけ心臓が忙しく動き出す気がする。
これも気のせいかな。
『そんなチャンミンに、俺は支えられて生きていた。』
『、』
懐かしむような、愛おしいものを見るような目だった。
「初代チャンミン」はだいぶ愛されたいたらしい。
僕は愛しい酵母達に生かされているけどね。
彼女達がいなければ、僕は働くことができない。
食べていくことができない。
『俺とチャンミンは、正反対な性格だったのかもしれないけど、それがよかったのかもね。』
なるほどな。
正反対だから「変なひとだな」で済ませられるのかもしれない。
『でもね、ある日突然、穏やかな生活が終わってしまった。』
『、』
彼は自分の手のひらに残る火傷のような痕に目を落とした。
そしてその瞳に影が刺す。
少し沈黙した間を置いて、彼は何かの痛みに耐えるように話し始めた。
『地震。』
『地震?』
『うん、その日もチャンミンはパンを焼いていた。俺は食べ損なった昼飯をチャンミンの家で食べようと思ってパンをねだりに言ったんだ。』
彼は笑っていたけれど、今すぐにでも泣いてしまいそうなほどに瞳のなかが揺れていた。
泣くんだろうな、このひとは。
『ちょうど焼きあがったよって言って、』
『、』
あれ。
『チャンミンはパンを焼く窯からパンを取り出そうとした。』
それって。
『その時だった、』
そういうの、僕は知ってる気がする。
食べさせるシーンに繋がる、あれに似ているような気がする。
気のせいかな。
気のせいだよね。
『地面から突き上げられるような地震があって、』
『、』
『家が、窯が、揺れて軋んで崩れ落ちる程の地震が起きたんだ。』
『…、』
気のせいだった。
だって僕が見る映像は「あーん」するみたいに誰かに食べさせるところだもの。
彼が言うそれは、想像するだけで恐ろしい瞬間だ。
僕のものとは違う。
違う。
違うんだ。
頭が痛い。
『揺れた瞬間なんてさ、その地震の大きさが世の中にどれほど影響があるものかなんてわかんないじゃん?』
『…、そうですね、』
『だからチャンミンはさ、売る予定だったパンを落とさないようにするわけ、』
僕もそうするかもしれないな。
『でも地面から崩れるような大きな地震の力は上から下から破壊しようとする。天井が落ちる、窯が砕ける。俺はチャンミンの手を引いて外へ逃げ出そうとした。』
命がなければ、パンのひとつも焼くことはできない。
その瞬間を想像することは出来た。
窯を守ろうとする初代チャンミンのことも分かる気がする。
『窯に火が残っていた。』
『、』
『危ないだろ、家が崩れ落ちたら窯が燃えてしまう。』
『…、』
鳥肌が立った。
もしかして、初代チャンミンは―――
『そこでまた大きな地震がきて、掴んだ手が離れてしまった。』
彼は自分の手のひらを見つめながら震わせていたように見える。
『熱い天板が飛んだ。』
『、』
『天井が崩れて、窯が落ちて、』
『…、』
『俺達は建物の下敷きになった。』
怖い。
そう思った。
聞くのが、怖い。
『幸い俺は何かの下敷きになることはなくて、でも、チャンミンは…、』
彼は歯を食いしばっていた。
手のひらを強く握って、歯を食いしばって、涙を溜めていた。
さも昨日その地震が起こってしまったかのように、生々しい表情と表現をしていた。
胸が痛い。
これは、とても胸が痛い。
『崩れた熱い窯の下敷きになって、俺の手では退かしてやれることが出来なくて、』
それでも、この人は熱くなった瓦礫や天板を退かそうとしたのだろう。
『火が回ってしまった中で、俺だけが誰かに引っ張られて助けられた。』
もし彼が本当に初代ユンホの生まれ変わりなのだとしたら、その手のひらの火傷は、初代の後悔の念が宿っているのだろうか。
この話しといい、火傷の痕といい、それが大昔のことだなんて僕には思えない。
思えないけれど、このひとが嘘を吐いているとも思えなかった。
真実を知らせることを仕事にしていたひとが、誰かに嘘を吐くようたことはしないだろうと思いたい。
『何がなんでも、俺の手がどんなになっても、チャンミンの体を離さなければよかった。』
後悔。
生き続ける苦悩。
このひとは、それらをどれほどの時のなかで抱えて生きてきたのだろう。
『離さなければ…、』
彼は手のひらを見つめ、唇を震わせ、涙を落とした。
それから強く握って、涙を拭いた。
『どうぞ、』
そばにあったタオルを渡す。
雨に濡れたのではなく、涙に濡れてしまった彼と遭遇するとは思わなかったな。
雨なら、毎日生きてここに通ってくれているうちに必ずそういう朝だってあるだろうけど。
涙するなんて、普通の店主と客の関係ではまずない出来事だもんね。
『ありがと、』
彼はタオルを受け取り、顔を覆うようにして涙を拭いた。
嘘ではないのだろう。
でも、僕自身に、地震は怖いけれどそれが過去に繋がるようなトラウマみたいなものがあるわけでもなかった。
だからまだ彼の話に繋がる実感というか予感みたいなものがないままだった。
でも、嘘ではないのだろうとは思う。
思える。
『もうひとつだけ、お願いしてもいい?』
涙を拭いた彼が赤い目をして僕を見る。
『はい、』
『1度だけ、抱きしめてもいい?』
『…、』
ここでダメだと言えば、きっと彼は笑って「そうだよね」って言うんだろうな。
そういう顔って、なんだかせつない。
いいんだ、今日は僕も彼もアルコールを摂取したいる。
酔っている。
そういうことにしよう。
『いいですよ、』
頷いて応えると、彼は立ち上がった。
腕を伸ばし、背中に回してくる。
目を伏せて、僕の首を折るように手を添えて距離を縮める。
今日の彼の肩から感じたのは、雨の匂いではない。
愛しい酵母の匂い。
香ばしい小麦の匂い。
『…、よかった、今、元気で、』
『、』
彼に深く抱きしめられた瞬間。
僕のなかに流れてきた映像の断片。
焼きあがったパンを嬉しそうに見ている僕らしき人物。
ミトンをしたままの手でバゲットを持ち、誰かの前で割って見せた。
湯気が登る。
焼きたてのバリバリのバゲットを誰かに渡す。
半分にしたバゲット。
誰かの手が見える。
バゲットを受け取り、僕の手から離れていった。
まるでカメラワークされているみたいに視点が変わる。
そして半分になったバゲットを持っていたのは、僕を抱きしめているひとと同じ顔をしていた。
『チャンミン、』
せっかく拭いた涙だったのに。
彼は泣きながら僕の名前を呼んだ。
抱きしめる腕の力はどんどん強くなって、僕の体ではなく頭のなかが痛んで軋んだ。
『ごめん、』
このひとが謝ることなんて、多分なにひとつないんだと思う。
だからね、思ったんだ。
思ったの。
何にも知らない僕だけど、思ったの。
チャンミンてひとは、幸せだったんじゃないのかなって、思ったの。
いつの時代も、どんな時も、こんなふうに想われて生きていたのなら。
それを知らないで生きていたわけではないと思うんだ。
何にも知らない僕が、そう思うのだから。
そばで一緒に生きていたひとは、もっと強く、もっと確かに、そう感じていたと思うんだ。
だから、
『泣かないでください。』
そんなに泣かなくても、いいと思うんだ。
あなたは何にも、悪くないのだろうから。
続く🥖
(´◉J ◉`∵)むぎゅ。
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