ヒビコレカケラ2~あの日のバゲット~(CM) | Fragment

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ホミンを色んな仕事させながら恋愛させてます。
食べてるホミンちゃん書いてるのが趣味です。
未成年者のお客様の閲覧はご遠慮ください。

その日は雨だった。
午前7時、ブーランジェリーヒビコレヨキヒが開店する。
今日は雨が降っているから、店の前に看板は出さない。
扉とお客様の邪魔にならないような場所に看板を置いて外に見えるように立てる。

「季節限定桃のタルトは11時焼き上がり予定です。」

数少ない甘いお菓子のひとつだ。
ケーキだね。
美味しい桃を取り寄せることが出来たので、入荷できている間だけの商品となる。
朝食べたい人のためにパンが優先されるから、どうしても菓子類やケーキを出す場合はこの時間になるわけだ。

タルト生地をさっくりと焼いて、その上にマスカルポーネチーズを隠し味にしたクリームをたっぷりと塗って乗せる。
そこへ今が旬の桃をバラの花のように飾りながら乗せていく。
カットした桃のひとつひとつを、1枚の花弁にして見せるのだ。
ラズベリージャムを桃の上へアクセントとして薄く塗る。
このジャムは母が担当して作ったものだ。
そしてそのレシピは祖母のもの。

今日は2台分限定で出来上がる予定だ。
冷蔵スペースが少ないから、これが限界なのである。


『おはよう!』

僕を好きだと言った例のサラリーマン登場。
水も滴るいいリーマンだ。

『おはようございます。』

ああ、肩が濡れているじゃないか。
僕のようにもう少し撫で肩なら傘に収まるんだろうけどね。
焼きたてのパンを濡らされても困る。

『どうぞ。』

レジ横に置いておいた未使用のタオルを取り、彼に差し出す。
僕を見た顔を一筋の雨水が伝っていった。
こめかみから滑り、顎から落ちていったのを見た。

『ありがとう。チャンミン優しい。そして可愛い。』

僕はゆっくりと生地を発酵させてくれるあの子たちこそが可愛いと思う。
ふつふつと小さな気泡を作り始めるあの瞬間がね。
彼女達の目覚めの瞬間に、僕は胸が高鳴るのだ。

彼が肩を拭いてパンを選ぶ(といっても決まっているのだろうけど)間に、工房へ戻って焼き上がりの様子を覗く。

小麦の純粋な香りが立つ時間。
雨にも負けない香ばしさ。
振り返れば、バゲットとスコーンを取るサラリーマンがいる光景。

ユンホさん、今日はラズベリージャムの日です。
スコーンに塗って食べてみてください。







トレイをレジ台に乗せて、彼はタオルを差し出してきた。

『これありがとう、洗濯してくる?結構びしょびしょで、』

『いいです、このままで。』

トレイの上はやはりバゲットとスコーンだった。
タオルを受け取る。
そして引こうとした時に、タオルごと手を掴まれた。

『やっぱり、近いうちに会えない?』

『会えないです。』

『連れないなぁ、』

『温めますか?』

『うん、食べてく。』

『ありがとうございます。』

そしてこの男は、まだ手を離さない。
笑顔のままで、手を離さない。
やっぱり僕よりずっと変な人だ。

『1度でいいんだ、会って欲しい。』

『あの、会って僕と何を話すんですか?』

『パンのこと。』

『、』

意外だなと思った。
これまでずっと通って食べてくれているけれど、そんなに興味があるようには思えなかったからだ。
新商品が出れば買って差し入れや手土産にしていくけれど、本人が食べているのかはよくわからなかったからだ。
定休日以外は必ず現れる。
日曜日も。
土曜日は定休日だ。
必ず来て、イートインスペースで食べていく。
話すことといえば、会う時間を寄越せとねだるくらいだ。
だからひとつひとつパンの話をしたことは改めて思い返すとあまりなかったかもしれない。
だから意外だと感じてしまったのだが、ひと通り記憶を探してみてたどり着いた答えは、意外や意外実はこの人もものすごいパンマニアで聞き取り調査をしたかったのではないかということだ。
まあ、わからないけど。

『いいですよ。』

『、』

そして、パンのことなら話せなくもないし、パンマニアだったとしたら逆に色んな話やヒントを得られるかもしれない。
珍しく誰かと接することにポジティブになった日だった。
憂鬱な雨なのにね。
そう、天気によって愛しの酵母達だって機嫌を損ねたりするのだから。

『次の定休日の午後2時。場所はここ。閉店した店内でどうですか?』

『いいの?』

『それ以外は難しいです。』

『絶対来る。』

『わかりました。』

それから会計をして、バゲットをカットしてスコーンと温める。
コーヒーを入れて砂糖を添え、カウンターテーブルへ運ぶ。
今日はノートパソコンを出して早速仕事か何かを初めていた。
僕も工房に戻り、焼きあがったパンの世話にかかる。
ちらほらと、いわゆる食事パンを求めてくるお客様の対応をしながら冷ましたパンを陳列していく。
その際に彼の背中が視界に入る。
見る度に、濡れた肩が少しずつ乾いていくようだった。

『あの、』

僕は何を思ったのだろう。
話しかけていた。
彼が振り向く。

『休日に食べたいパンはありますか?』

せっかくだから、次に会う時に1品だけ振舞ってもいい。

『、』

『ひとつだけなら、用意します。』

『…、バゲット。』

『今食べてるじゃないですか、』

『焼きたての、食べたい。』

『…、わかりました、いいですよ。』

変な人。
損をしているような気がするけれど。
このバゲットが余程好きなのだろうか。
ここのバゲット限定のマニアか。
まさかね。

ああ、でも、先日変なことを言っていたっけ。

―――あの日のパンが、…チャンミンのバゲットがまた食べたいんだ。

あの日って、どの日のことだろう。

『あの、』

『うん、』

『この前言っていた、あの日のバゲットって、いつのことですか?』

『、』

彼の目が見開く。
何かを言いたそうに唇を開いたり閉じたりしている。
そしてこう言った。

『いつものバゲットでいいんだ。また改めて話す。』

それならそれで僕は構わないが、今まで僕と定番の会話をしている中で、こんなふうに躊躇うような瞬間を見たことがなかった。

『じゃあ、好きなジャムぐらいは用意しますよ。』

『じゃあ、やっぱりいちご。いちごジャム。』

『わかりました、とっておきのをお持ちします。』

『めちゃ嬉しい、めっちゃ嬉しい!ありがとう!』

『、』

ドンと音を立てて僕の体に彼がぶつかってきた。
少しだけ脳みそが揺れた気がする。
抱きつかれた。
肩から雨の匂い。
脳みそが揺れたせいで目の前には星が出ている。
雨の日なのに。
そして初めて感じた、彼の個人的な匂い。
きっとクリーニングから引き取ってきたものを着たんだろうな。

『今日のジャムも美味しかった。』

『今日はクランベリーです。タルトにも使うから。』

離してくれないのは何故だろう。
工房からブザー音。
次のパンが焼きあがった。
早く出して冷ましてやらなくちゃいけない。
彼の背中を2度程叩いて体を剥がした。

『焼けたパンがあるので、また、』

きっと時間的にはもう少し滞在するのだろう。
お好きにどうぞという意味を込めて焼きあがったパンとタルト生地をオーブンから取り出す。
ここからはバターを使ったパンが焼き上がる時間に入る。
オーブンの熱気で日焼けしそうだ。
しないけどね。

バターを使ったパンで今日の出番になった子達は、パン・ド・ミ、クロワッサン、ブリオッシュアテットなど。
ちなみにスコーンはバターを使うけれど、早い時間に焼き上げるようになった。
これは朝買って朝食以外の時間に食べたい人がよく買っていく。
祖父母の代からスコーンだけは朝食用の食事パンと同じ時間に並べるようにしていたのだった。

こうしてみると、この店のパンは色味が少ない。
華やかさもない。
けれどこれ以上広げるのは難しいし、この店に似合わないような気がしている。
だからせいぜい、タルトやケーキを1種類添えるに留まっている。

天板ごとパンを冷やすラックに移動させ、それからコンテナに詰めて運びやすくする。
タルト生地が完全に冷めたらデコレーションをしていく。
そうこうしているうちに、彼が工房を覗くように声をかけてきた。

『ごちそうさま、いってくる。』

『あ、はい、ありがとうございました。あの、』

『うん?』

『タルトとかケーキって、食べますか?』

『うん、好き好き、めっちゃ好き。』

『じゃあ、帰りにまた覗いてみてください。』

『え?』

『今日のタルト、ひとつ残しておきますから。』

『チャンミン、』

『今日だけですよ、』

『結婚しよう!』

『しません。』

今日は僕の方が変な人かもしれない。
何を突然こんなサービスを思いついてしまったのか。

『彼女と食べるとかならふたつ用意してあげますけど、』

『チャンミンと食べられるならふたつ欲しい。』

『ひとつですね、わかりました。』

レジ台越しに飛びかかってきそうな勢いの彼を仕事に向かわせ、再び静かになった店内と工房で仕事を続ける。
常連のお客様からパンマニアな女性の軽いインタビュー対応をしたりして過ごし、母が手伝いに来てくれたところでタルト作りを始める。
クリームを作り、桃をカットしてデコレーションする。
冷蔵庫で冷やして落ち着かせ、カットして冷蔵ケースに入れる。
そこから1ピースだけ取っておく。
工房の冷蔵庫にテイクアウトの箱に入れて待機させる。


今日の商品が全て焼きあがって陳列できた。
コーヒーを温める。
バゲットをカットして温める。
最近気に入って取り寄せている私物のバターを乗せて溶かす。
北国のある牧場で作られるバターだ。

じゅわっと溶けて生地に吸い込まれていく。
黄色に染まる生地を見つめていると、とても幸せな気持ちになれる。
それは何故だろうか。

香ばしく焼きあがったクラストの茶色。
バターの豊かな黄色。
酵母が香る無垢な湯気の白。

硬いだけじゃないんだ、このパンは。
それを現すことができたのが、祖父母だった。
美味しいと感じる硬さがある。
そこに触れることができたパンなんだ。

溶けたバターが滴る。

その瞬間、今朝の雨の中やってきた彼を思い出した。
顎から落ちていった雨水。
バターを見て彼を思い出すとは、また自分がよくわからなくなった。

せっかくのバターが減ってしまってはもったいない。
噛むとこんがりと焼けたクラストがバリバリと音を立てる。
それからクラムに染み込んだバターが水分を引き寄せて口の中に広がる。
バター以外の水分を確かに感じる食感。
小麦の白い風味に焼けた香ばしさとバターの甘みが口から鼻から抜けていく。
抜けていくのがもったいない。

『…おいしい。』

噛んで飲み込む。
もう一欠片手にした時だった。

頭の中に映像が流れてきた。

僕の姿が見える。
記憶?
別人格の僕?
焼きあがったバゲットを前にする僕の姿だ。
この店ではないらしい。
そうなると、やはり別な場所で生きる僕の姿なのだろうか。

僕が振り返る。

「今焼けたよ。」

誰かに話しかけているらしい。
多分いつも見る映像で話しかけている人物と同じ人なのだろうとは思った。
なんとなくだけれど。

「新しい粉で焼いたの。」

そういえば、映像のなかの僕はよく笑う。
話しかけている間、映像を見ている僕と目が合うことはない。
だから映像のなかの僕は、誰かのことをしか見ていないのだろうね。

「ねえ、食べてみる?」

口調からして、親しい間柄なのだろう。
映像のなかの僕はブレッドナイフで焼きあがったばかりのバゲットをカットした。
冷ましてからカットするのではなく、焼きあがったものをすぐにカットした。
つまり、売るものではない。
家庭で食べるものなのか。

それから、映像を見ている僕を通り越すように、一欠片のバゲットを誰かの口元に運んでいった。
そういうことができる間柄ということか。


『、』

そこで頭の中の映像が途切れた。
目の前には掴んだままのバゲットがある。
溶けたバターが皿の上に滴っている。
もったいない。
バゲットで皿の上のバターを塗って口に運ぶ。

『…、』

映像のなかの僕が食べさせようとした相手は、どう感じたのだろう。
美味しいと思ったのか、そうではないのか。

そしていつものように、胸のなかに大きな寂しさが溢れてくるのだった。
今日は店に母がいてくれた日だったのに。
無念さや寂しさがバターの香りを追い出して、僕の体中に回っていったのだった。




その日の午後、僕が仮眠をとるために店を出た後に、彼はタルトを受け取りにきたらしい。
両親に、受け取りに来るかもしれないから
父が対応したそうだ。
サービスで提供するつもりだったが、彼はどうしても代金を払うと言ってきかなかったそうな。

「クランベリージャム、甘くて、酸っぱくて
甘くて美味しかった。」

父にもジャムの感想について、そう言っていたそうだ。
「甘くて」を重ねて言ってしまっていたことまで父は伝えてくれた。
父相手にへんてこりんなくせに、頑固な姿を見せる様子が目に浮かんで、つい笑ってしまった。
そして午前中のあの寂しさはすっかり忘れることが出来ていた。

これから僕は仮眠をとって、バゲットのための生地を作り、約18時間冷蔵発酵させるための作業を行う。

夢の中であの映像が流れることはないのだろうか。
これまで起きている時間にしか、見たことがなかった。

思い出すといったほうが正しいのか、知るといった方が正しいのか。

今日はやけに、あの映像のなかにいるもうひとりの存在が気になったのだった。



まだ雨は降っているようだ。

あの彼はまた肩も額も濡らしているのではないだろうか。
タルトを食べてまだ仕事をしているのか、そのまま帰ったのか。
なぜバゲットにこだわるのか。

彼を思い出して現れる登場回数が増えている。

おかしいな。




工房のなかに立つ酵母の香り。
さあ、今夜も彼女達に思いきり働いてもらうとしよう。

『よろしく。』

ふつふつと音を立てて答えてくれる。

ねえユンホさん。
この音が聞こえますか。
僕はこの美しい音を立てる彼女に夢中なんです。
これを理解できないと、きっと僕の友人であることもしんどくなると思いますよ。

だから、僕に構うのはほどほどに。


あれ。
まただ。
おかしいな。
この時間にあの人のことを思い出すとか、ほとんどなかったはずなのに。


『へんなの。』


まるであなたも発酵して膨らんでいるみたいだ。

だって、じわじわとあなたの顔が過ぎる時間が増えているんだもの。

発酵のし過ぎもまた味も食感も損ねるので程々に。

















続く
(     ∵     )ノ🥖
(´◉J ◉`)膨らんでみたんですね
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