私が見た介護現場⑥-母の友人、施設に入る | あなたに,も一度恋をする

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母の腰椎椎体骨折で入院面会に通っていた毎日。

 

母は医療療養病棟の4人部屋を使わせて頂いていました。

 

母の腰の痛みも病院のおかげで安定し、

 

痛みから徐々に開放されているようでした。

 

 

最長で2か月入院出来る病院

 

これを終えて母が退院となった後、

 

私は自宅で母をみれる自信はなく、

 

不安を抱えたまま過ごす毎日でした。

 

 

そんななか、

 

入院して1か月を迎えようとしていたある日、

 

母の長年の旧友のMさんから、

 

こんなハガキが届きました。

 

 

 

このハガキは、

 

Mおばさまの筆跡ではありませんでした。

 

 

 

Mおばさまは、母より3つ年下。

 

聡明で、チャキチャキの方。

 

気配りが、天下一品の粋な女性。

 

おもしろおかしく、

 

早口で人を笑わせるのが得意でした。

 

生きざまは壮絶で、

 

幼い頃から奉公に出され、生きてこられた方。

 

ご自身が子供時代に労働者であった事から、

 

子供には子供らしい楽しさを味わってもらうために、力を注ぐ方でした。

 

 

思えば、私姉妹がサーカスを観に行けたのも、

 

大阪城公園の大木の桜のお花見ができたのも、

 

遊園地で着ぐるみキャラと一緒に写真を撮れたのも、

 

お誕生日会というのを初めて経験したのも、

 

おばさまが自分達家族のなかに、私たち家族をいつも誘ってくれたからでした。

 

そして子供に遊ぶ楽しさを与えるだけでなく、

 

教育においても、特に熱心でした。

 

私が習字やピアノを習う事になったのも、

 

このおばさまからの勧めでした。

 

 

 

そんなおばさまと母は、

 

互いの夫が、

 

同じ職場で苦楽を共にした友であった事から、

 

妻同志の交流が始まりました。

 

始まりは、もう60年も前のこと。

 

 

 

同じ社宅で暮らした10年の期間を通じて、

 

二人はやがて親友となり、

 

社宅を出た後も、

 

1年に何度も花を鑑賞に出かけたり、

 

旅行に出かけたりしてました。

 

そうそう、

 

親戚さえも忘れている私の父の命日に、

 

おばさまは必ず訪ねに来てくれました。

 

 

おばさまには、息子さんと娘さんの2人の子供がいます。

 

息子さんは日本で3本の指に入る国公立大学の大学院卒。

 

テレビでも特集された理系の超エリート男性。

 

その息子さんは他県で住んでいらっしゃる。

 

他県とはいえ、時折訪ねに行かれてた。

 

育ちの良いお嫁さんとの関係は、すこぶる良好。

 

 

 

一方、娘さんは近郊に住んでいらっしゃる。

 

その娘さんの家に遊びにいったある日の事、

 

お孫さん可愛さの余り、

 

「おばあちゃん、●●ちゃんと一緒にいたいから、ココに住んじゃおうかなぁ~?」

 

と冗談を言ったその翌日、

 

娘から泣きながら電話がかかってきて、

 

「お母ちゃん、ひどい!

なんで一緒に住みたいなんて言うんや!

私、旦那から、こっぴどく怒られたんや。

お義母さんに、二度とあんな事、言わすな!って。」と。

 

その夜、

 

娘の旦那様は激怒が止まらなかったらしく、

 

まくしたて、

 

最後に言った言葉は、

 

「あんなに自慢していた優秀でお金持ちの息子さん(義兄)がいらっしゃるんだから、老後は、そのご自慢のお義兄さんに、みてもらえばいいんじゃないの~!」

 

と。それはそれは強い皮肉をこめた言葉だったそうな…。

 

自分の娘が、たとえ夫からそう言われたとしても

 

当の本人がそれに同調して、泣きながら

 

「お母ちゃん、一緒に住むなんて言葉、

もう二度と口にせんとってっ!」

 

と言われた事に、気の強いおばさまも、いささかショックを受けていらっしゃったようで…。

 

母はそれまでに、何度もMおばさまに、

 

「もう年齢が年齢だから、息子さんの家に行って同居させてもらえば?」

 

と勧めていました。

 

でもおばさまは、

 

「息子に迷惑をかけたくないし、自分も自由がええからね。」と、

 

頑なに母の提案にうなづく事はなく、

 

最期まで独りで頑張ると言ってらっしゃった。

 

 

 

そうして、おばさまは、

 

夫を亡くした後も、

 

文化住宅の家賃を払いながら、

 

玄関先にたくさん並べた鉢花を育てる事を生きがいに、

 

気丈に独居生活をされていました。

 

 

 

そんなおばさまも、

 

母が認知症の症状を現し始めた頃と同時期に、

 

どことなく妙な言動がありました。

 

 

 

やがて、おばさまの訪問もなくなり、

 

電話も途絶えるようなって約2年。

 

そして、届いたハガキ。

 

 

『おばさまは

グループホームに入られたんだ…。』

 

心がぎゅっと締め付けられる思いでした。

 

 

 

そしてしばらく考えた末に、

 

このまま一生2人は会えなくなる気がして、

 

私は、Mおばさまと母を繋ぎたく、

 

おばさまのいる施設に、

 

母のビデオレターをスマホで撮って、

 

持って行くことを決めたのです。

 

そしてその日は、

 

私にとって、

 

忘れられない切ない記憶となりました。

 

長くなりますので、

続きはこのあとの記事で

 

(二人でよく訪れていた公園内の日本庭園にて。

 向かって左が母。右がMおばさま)