⑤ありがとう、ちい子 | あなたに,も一度恋をする

あなたに,も一度恋をする

わんこと,お花と,お料理と…そして介護

火葬場まで、残り1時間となった。
抱いていたちい子を家に戻ってからも抱いたまま、
私の部屋の椅子に腰掛けた。
作曲しているとき、時々、この部屋を覗きに来ては、
「どぼじゃん、何やってんの?」と聞いた。
昨年までの数年間、心の余裕がなく、それさえうっとおしい思いになることもあったけれど、
ちいの顔を見ていると、時々、抱き上げては、回転するこの椅子に腰かけ、
「さぁ、クルクルやるぞぉ~~!」
と、遊園地のコーヒーカップのように相手をした。

「わぁ~~これなにぃ~~!!」

「クルクル!」

「くるくる?」

「そう!クルクルゥ~~!!!」

「わぁ~~!!」

「逆方向、いくよぉ~~ほぉらぁ~~!!クルクルゥ~~!!」

「わぁ~~くるくるぅ~~。」

好奇心旺盛だったちい子。
私には、まるで子供だった。
物覚えがよく、「犬のおまわりさん」のワンワンの部分を一緒に歌った。
ご飯を「ごあん」とハッキリわかるように言えた。
「どぼじゃん」と「オカアタン」が言えた。
いつも危機になると、私を呼んだ。

今、ちいを抱きしめ、椅子を左右に揺らし、ゆりかごのようにあやす。
ちいの顔を頬に当て、
「ちいよ・・ちいよ・・・ドボちゃんだよ。」と語りかける。
もう目覚めることのないのに、愛くるしい我が子のように。


ちいが若い頃に、私はこの部屋で、よくショパンを弾いた。
ノクターンを聞くと、決まってちいは、スヤスヤと眠った。
途中でベートーヴェンのソナタやモーツアルトに変えると、
「うるさいわぁ。」と、部屋を出て行った。

ピアノはもう、10年以上、弾いてない。
あの頃よく弾いたショパンのノクターンの1番、2番、3番、5番、9番。
お気に入りのアシュケ演奏のカセットが見当たらず、
しかたなく、当時たいくつな演奏と思えたワイセンベルクのショパンカセットをかけると
アシュケや他の演奏家にはない、飾り気のない追憶に浸るような演奏に、ちい子との思い出が蘇えり
また泣けてきた。

私を見上げているちい子の亡骸。
あと1時間でお別れだ。
涙が波ように襲ってはピタリと止まり、また波ように襲ってくる。
せめてあと1時間、こうしていたい。
せめて、あと1時間。


午後2時火葬場に、3人で向かい、ちいが焼かれる2時間、家に戻り、横になった。
ぼんやりしていると、なぜだか、ちいの泣き声が聴こえてくる。
『また幻聴だ。』
恐らく、車のタイヤの音が、ちいの泣き声の周波数と一致すると、
そこから、大脳に記憶されたちいの声が引き出されるんだろう。
そして、ちいが息をひきとってから、もう何日も経ったような錯覚。
父が亡くなったときと同じ感覚だ。
あのとき、病院で父の息を引き取った瞬間から、翌朝自宅にいたまでの記憶が私には欠落してる。
今日も、あのときと同じように、記憶がなくなると思った。
泥酔しても、記憶がなくなることなどないのに。
人は極限までの悲しみに達すると、
自分を守るための防御が働くのかもしれない。

今日のこの日の事を忘れないために、プログのいくつかの記事を削除して、
書きとどめておこうと思った。

火葬場で、ちいのお骨を拾い終えたところで、葬儀屋の人に聞いた。
「すみませんが、このお骨を散骨用に、砕いて頂くことは出来ますか?」

突然の質問に、母とダァーさんが驚いた顔で私を見た。

「申し訳ありません。それはしていないのです。
ペットさんのお骨で、そこまでされる方がいないのです。」

「そうですか・・。では、自分で砕きます。」そう言った。

家に帰ってから、母が聞いた。

「ミンちゃん、散骨って・・・。」

「うん・・。大仙公園に撒こうと思ってね。
本当は、骨壷を毎晩枕もとに置いて、自分の墓に一緒に入れようと思ったけどね、
生きてる間、目が見えなく、耳が遠く、足もなえていて、家のなかばかりだった。
もう暗いところは可哀相だと思って。
49日が過ぎたら、いや、来年の春にね、大仙公園でね、ちいが歩いたすべての道に、
少しづつ、お骨を撒こうと思う。
そうしてね、数年後、大仙公園に行って、ちいのお骨を撒いた道にね、小さなお花が咲いていたら、
ちいの養分で育った花だと思えるでしょ?
だってね、血統書の名前が『小花の舞』じゃない?」

母が笑いながら、泣いた。

来年の春、ちいのお骨を、あの公園に撒こう。
そして撒いた道に、あのタンポポの花が咲き乱れていたら、
『ちいが、タンポポに生まれ変わった。』
と思えるのかもしれないね。


私の人生の1/3を一緒に過ごしてくれた、愛しいちい子。
可愛い、可愛い、私達の家族。
18年間、ありがとう。
ほんとに、ほんとにありがとう。