引き続き観たのは「オテロ」
観終わってから
「これ、観るんじゃなかった!最後にとっておくべきだった。」
と後悔した。
「オテロ」は、ヴェルディ、最後のオペラで、73歳のときに初演された作品。「アイーダ」から、実に15年以上の空白を経て作曲された作品だという。
いわば、ヴェルディ集大成の作品。
まず序曲が始まって、もう背筋ぞくぞくってかんじの管弦楽。
「これ、ヴェルディなん?」と思った。
管弦楽の出だしが、他の作品とは比にならないゾクゾク感。
迫力ある一撃をくらったようなかんじ。
igaさんから頂いたこのDVDは、なんと私のチョー苦手の外来語訳だったのだけれど、幸い英訳の字幕だったので、ドイツ語やフランス語よか、多少はわかるだろうと思いつつ、やっぱり伝わってはこない。
で、いったんDVDを止め、ある程度のストーリーがわかるようにストーリーを頭に叩き込んでから、再生した。
(情けなかね・・・。しょうがねぇ・・・。)
ヴェルディは、とにかくシェイクスピア好きだったようで、恐らく自分の最後の作品となるであろうオペラに、またシェイクスピアを用いた。
この作品を鑑賞して、まあ、驚いたことは数多く・・・
そのうちのひとつに、先に挙げた管弦楽の見事な楽器の用い方。
ここぞというときに選ぶ楽器選別のセンスに唸り、何よりも、オケが歌と完全一体。
二つ目は、ヴェルディの音楽は、流れるように進行して、
「はい!ここでアリアを歌います!」みたいな構えた場面がない。
その渓流のように進行する音楽は、鑑賞者に、そうだなぁ・・
静かな波がササーっと襲って、しみわたってくるような、そんな伝達がされる。その自然さ。
以前、「椿姫」をみたとき、「少々のくどさ」を感じられたけど、それらは完全に一掃されて、格段に垢抜けた洗練さがある。
三つ目は、なんていうんでしょうか?
歌にグリッサンド的な歌唱なんかも登場し、ちょっとコレには驚いた。だって、西欧の歌曲なんかに、グリッサンドというのは「品のない歌い方扱い」が今でもレッスンの基本になってるから。
そうしたグリッサンド的歌唱(多くは登場してないと思うけど)なんかの用い方によって、「五線譜を歌ってますっ」ていう感じではなくて、まさに登場人物の自然な言葉として届けられているように思う。
またレチタティーヴォでもなく、アリアでもない歌い方を聞いて、
『これかあ!!
“過去の伝統的ベルカント唱法の絶対的価値観から抜け出た作品をつくり、他の作曲家のオペラ意欲を減退させた”っていうのはっ!!』
と思った。
ネットで、私が感じたこれらを、実に簡潔に書いていらっしゃる方がいたので、抜粋させて頂きますね。
*****
このオペラにおいて今までのイタリア・オペラになかったような人声と管弦楽は完全な一体化を見せ、生き生きとしたドラマを展開した。レチタティーヴォとアリアの区別もなく、伝統的な番号オペラからの脱出を果した、全幕が起承転結となって明快な構成を持つ。一つの幕が交響曲の一つの楽章のようにである。凝縮されたこのドラマ性は特筆すべきことであった。
従来の意味でのアリアは、「オテッロ」の中にはもうない。レチタティーヴォがアリアに近づき、レチタティーヴォとアリアが一体化し、そうした組み合わせによる定型の閉鎖性を解放した。ヴェルディはレチタティーヴォの可能性を大きく変えていく。ドラマが展開していく時、レティタティーヴォは大きな役目を持たせ、なんでもない箇所をも引き立てている。
<http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/verdi_otello.html>
*******
ヴェルディは、晩年になって、過去にはなかった独自の新しいオペラの歌唱法を築き、すばらしい大傑作を作ったのだと思った。
初めて私がまともにヴェルディのオペラを観たのは、「アイーダ」で、その独特の民族音楽的旋律に気に入って、とても興味を持ったのだけれど、そらに15年経過してこの作品を作り、揺るぎないロマン派オペラの金字塔を打ちたてたんだなと思った。
この「オテロ」でも、とても魅惑的な音形が登場する。
第二期に作曲した作品のなかで
「ドミソドミドソミ、ドミソドミドソミ」ってのがあったけれど、
もう、そんな音形なんて登場しない。
他の誰にも作れない、すごいスペクタルな、すごい楽器法の、
そして観客がドラマに吸い込まれるようなオペラに求められる最高レベルの音楽を作っていたんですねぇ・・・。
オテロ!まさに、ブラ~~~ボ!!!!!
<※妻は愛されすぎると殺される。私も気をつけよう。>
オテロ:プラシド・ドミンゴ
デスデモーナ:レニエ・フラミング
イアーゴ:ジェイムス・モーリス
指揮:ジェイムス・レヴァイン
メトロポリタン歌劇場管弦楽団
演出:ブレイン・ラージ
字幕英語 1995年2月21日