大学の国際化に断固反対する! | 岐路に立つ日本を考える

岐路に立つ日本を考える

 私は日本を世界に誇ることのできる素晴らしい国だと思っていますが、残念ながらこの思いはまだ多くの国民の共通の考えとはなっていないようです。
 日本の抱えている問題について自分なりの見解を表明しながら、この思いを広げていきたいと思っています。


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 文部科学省がこの4月(平成26年4月)から「スーパーグローバル大学創成支援」を開始しました。我が国社会の国際化を先導する「スーパーグローバル大学」を30校を創成しようというプログラムで、文部科学省が募り、応募してきた国公立大学・私立大学の中から選定するという仕組みです。すでに本年度の応募は5月30日で閉め切られました。応募した大学名が公表されてはいませんが、少子化で学生選抜に苦慮している大学の実情を考えますと、恐らくは名だたる大学がこぞってこの支援プログラムへの応募を決めているのは想像に難くないところです。

 この「スーパーグローバル大学」の選定基準は、文部科学省の言葉を借りますと、「徹底した「大学改革」と「国際化」を断行し、世界的に魅力的なトップレベルの教育研究を行う大学や、我が国社会の国際化を牽引する大学」だそうです。世界大学ランキングのトップ100に入れそうな大学10校と、そこまでの力はないけれども国際化に向けて思い切った改革を実行する大学20校を選ぶということのようです。そして活動の進展ぐあいを確認しながら毎年補助金が交付されるという仕組みになっており、10年間で徹底した大学改革と国際化を断行させるのだそうです。

 では、どういう大学が国際化を推進している大学だとみなされるのでしょうか。それは例えば、教員に占める外国人及び外国の大学で学位を取得した専任教員の割合であったり、専任職員に占める外国人及び外国の大学で学位を取得した専任教員の割合であったり、学生に占める外国人留学生の割合であったり、外国語(主に英語)による授業科目の割合であったり、日本語を使わずに卒業できるコースの数あったり、大学の意思決定機関への外国人の参画が進んでいるかどうかであったりします。教職員に占める女性の割合で国際化を判断するというよくわからない項目もありますが、それはともかく、外国人教職員を増やし、外国人留学生を増やし、外国人に大学の意思決定に参画させ、英語だけで卒業できるコースを作っていくというのが、すぐれた大学教育のあり方だと考えているのが、文部科学省の基本的な考え方だということになります。

 さて、ここに垣間見えるのは、日本人や日本語や日本の大学に対する不信感だとはいえないでしょうか。教職員に外国人が多い方が優れている、学生に外国人が多い方が優れている、教育に日本語を使わない方が優れている、外国人が大学の運営を左右できる方が優れていると言っているわけですから。

 日本は近代化を迎えるにあたって、西洋の概念語に相当する日本語を次々と編み出していきました。そのおかげで、欧米の知的な文書を母語を通じて理解できるという、世界中では非常に恵まれた立場を確立することができました。それゆえ私たちは日本語を通じて、世界中の知性を理解できるようになるという、大変大きな利点を手にしたわけです。それゆえに英語が苦手になったという側面もあるわけですが、そのことに劣等感を感じて「抜本的改革」を行うというのは、発想の根源が狂っていると思うわけです。

 グローバル化とは、わがままなアメリカがその力を背景にして本来は自分たちの国だけでしか成立していないローカルルールを世界中に押し付けているだけのことなのに、その基準に合っていないからという理由で、私たちの社会を変革しなければならないというのは、大いに疑問です。

 日本人がいくら頑張っても、英米人に英語で勝つというのは無理な話です。日本が日本の国益を追求する立場に立つなら、日本においては日本語しか勝負できないようにし、少なくとも我が国の内部は守りを固めていくべきであるのに、逆方向に動いていることに危機感を覚えます。

 ノーベル物理学賞を受賞した故湯川秀樹博士は、洋書を原書と呼ぶことを嫌っていらっしゃいました。もともとの優れたものが欧米の方にこそあるという精神性が「原書」という言葉に表れていると湯川博士は考え批判されたわけですが、今日の大学改革の流れを湯川博士がご覧になられたらどう思われるでしょうか。

 日本の国力を高め、日本の精神文化を回復して強化し、そうした高い精神性・文化性や日本の国力に外国の方々が憧れ、日本語を身につけて日本で学びたいという気持ちにさせるというのが、本来の日本の国際化ではないでしょうか。


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