日本は、明治以後西洋と呼ぶべき欧米に追随してきた。
とりわけ
戦後日本は米国に毒されていったと言ってもよい。

しかし、
近代というものは、
おおむね地球上の諸国が西洋化を受け入れたといえる。
政治経済においては特に西洋近代化がもたらした
政治体制や経済構造をおおいによしとしてきた。

ただし、
政治面において民主主義という名の下、
自由民主主義と社会主義という
ふたつの政治哲学のもと二律背反として存在してきた。

しかし、
社会主義は誕生から100年ほどでその実態を失い、
政治哲学や政治理念として一部存在してきた。

経済構造も資本主義を起点とし自由経済を発展と見た。
そこに富の偏在と富による社会構造の二分化が進み、
それは人の心の分断となっていく。
その結果、共産主義という
共同分配と並列的平準化による平等原理を
よしとする思考が生まれ、
それを人は一時期ユートピアと呼ぶようになる。

しかし、
ユートピアはあくまでも理想世界であり、
それが現実となることはなかった。

今日においても
社会主義や共産主義という言葉は残影のごとく残り、
いまだ国家の主体がそうだという国も存在する。
しかし実態は経済における市場経済の導入という
いかにも資本主義的経済体制をつくりだしながら
適度な国家管理という
きわめて不可思議な準統制経済が営まれている。

それに対して、
いわゆる自由民主主義、
そして資本主義的自由経済を中心とする国家は
二つの系列に活路を見出したといえる。

より自由で
社会が制度のみに縛られない発達をよしとする社会。
つまり、
小さな政府、
そしてより自由な経済、
競争原理こそを発展と見る社会形態。

それに対して、
常に国家や自治体というものが
政治経済においてある一定の影響力を保ち、
場合によっては
より計画的、より統制的な色合いが見える
社会民主主義や民主社会主義というような
大きな政府を標榜するという
反作用的な社会構造もよしとされる。

民主主義とは左右が両立してこそ成り立つもので、
その左右のブレが
社会体制を決めるといっても過言ではない。
ようするに議会制民主主義とは
常に一方方向のみをよしとするものではなく、
ノンポリシーという民意には
自由選択という権利が存在する。
このことをわれわれは忘れるべきではない。

今日の政治というものは
左右対立と左右のいずれかに力が集約され、
かなり偏向的な一方方向へ向いていくということを
よしとしつつある。
これはもはや民主主義の弊害だと受けとめるべきである。

民主主義とは、
常に流動的であり、
極端な体制を強化するというのは
民主主義の破綻ともなりかねない。

しかし、
世界を牽引してきた西洋、
つまり欧米では現状を見るかぎり、
極右ポピュリズム、
つまり民族主義的ポピュリストが台頭しつつある。

ドイツの州議会選挙を見れば顕著である。
旧東ドイツ圏の州の多くが
極右ポピュリズム政党に民意が力を与えた。
その真逆に、
ベルリンという
ドイツの中心をかかえるベルリン州州議会は
左派政党が第一党となっている。
これもまた民意のなせる業である。

また、
フランスにおいては、極右と左派が台頭し、
現マクロン大統領の率いる中道は弱体化していっている。

それ以外も欧州各国において極右の台頭と、
それの反動としての左派の進出が見られ、
欧州は混沌としているといえる。

米国はいうまでもなくトランプの暴走という、
もはや民主主義がどこにあるかという
きわめて不可思議な国家となり果てた。
これもまた民意のなせる業で、
11月の中間選挙がどのような答えを出すか
高みの見物の私としては非常に興味深い。
できればあの阿呆には
鉄槌を食らわせていただきたいと思うが、
それは同時に
あの阿呆がより暴走することを考えると
背筋の凍るような思いがしなくもない。

プーチンや習近平というような極端な国家主義者は、
もはや論外である。
この二カ国に未来があるとは私には決して思えない。
そして、それに追随する国家があれば、
それも同様の末路をたどるに違いない。

では、
日本はどうであろうか。
現総理と現政権は
表面では日本的保守というものを見せながら、
これまでの日本における保守政治とは
一線を画す存在となりつつある。

これまでは一党独裁という自民党の政治がまかり通った。
その中でも小泉政権という
極端なポピュリズムが一時的に台頭したといえる。
その後、
安倍政権というきわめて右派色の強い
自民党一党独裁というよりも安倍一強主導政治が
まかり通った。
残念ながら、安倍晋三氏は凶弾に倒れ、
この世を去る結果になる。

そして、
これまでの自民党がより風変りなものになったのは、
高市早苗が
自民党総裁となり内閣総理大臣となったことが
きわめてこれまでとは違う政治というものを
浮き彫りにしていく。

本来であれば、
日本も欧米の例に追随するかのように
極右ポピュリズム、
ようするに民族主義的ポピュリストが
強くなるかのような風潮も見られたが、
高市が現れて以後、この空気は一変した。

高市早苗という人物は、
自民党の中で最も特異な人物であり、
旧派閥のような人間関係が薄く、
きわめてまれに存在する人物である。
また、
その思考に
極右的とも思われる民族主義的思考も表面上存在し、
さもすればトランプに追随するかのような
虚栄と虚構をよしとするようにもみえる。

しかし、
高市は故安倍氏を師と呼び、
安倍政治を継承するという発言もあるが、
安倍政治は決してトランプのような
狂気の沙汰をよしとしたわけではない。

また、
故安倍氏は自民党の最大会派を率いており、
あの瞬間だけを見ればミスター自民党であった。

しかし、高市はミズ自民党には到底なりえない。

現政権にすがる自民党議員は
自己保身を旨とするノンポリシーである。
つまり自民党はノンポリ集団で、
もはや保守政党ではない。

このような自民党がにわかに出現したことで、
極右ポピュリズムはお株を奪われたうえ、
打算的ポピュリズムという点において
極右ではないがポピュリズムを主体とする政党も
見えないうちに呑み込まれていった。

結果として
日本は、
諸外国から見れば
極めて不可思議な政治をよしとする
国家に見えているのではないか。
単純に言えば、
政治的には右派色が強く、
さもすれば
極右が思考する国家間のようなものを
よしとする向きがある。

ただし、
経済政策を見れば、
減税や給付、そして積極財政、国家的投資を強く推進し、
これだけを見ればまさしく大きな政府であり、
さもすれば社会民主主義的だと見えなくもない。

つまり、
政治的にはきわめて民族主義的な国家主導をよしとし、
経済的にはいわゆる大きな政府という
国家が丸抱えで大衆におもねるふりをしながら
強い経済というそれとは真逆な資本主義を
実現しようとしているように見える。

このように見れば、
高市総理と高市政権は、
なにを目指し、どこへ行こうとしているのか、
いわば迷宮の中をさまようような
政治と経済をよしとしているようで、
なんとも怠惰で退廃的なにおいがしてならない。

言葉と行動が一致せず、
その姿を奇妙なスローガンで覆い隠すというのは、
もはや政治でもなければ経済でもなく、
そのうえ、
ポピュリズムという大衆迎合ともいえず、
ただの承認欲的人気取りゲームのように見えてならず、
日本はきわめて危険水域に存在し、
もしも低落が続けば
圧壊深度に迫るといっても過言ではない。

このようなことを批判めいたものとして言葉にすれば、
必ず無責任かつ単なる反動だと言われてしまうゆえ、
私なりの意見を最後に添えておく。
細部については
機会があれば述べさせていただきたいと考える。
ここでは、大胆かつ広義的意味で私見を述べたい。

日本は、千数百年前から高度な官僚制をひき、
官僚国家といっても過言ではない。
そのうえ民意というものはあまり国家に反映されず、
人民もまた強い力というものに依存する傾向があり、
本来、
民主主義は根付きにくい国家であり民衆ではないか。
このように見れば、
日本というものが
自由というものをもっともよいものとするよりも
平等というものをよしとする傾向があると見える。
だとすれば、
日本の政治体制は
きわめて刷新された社会主義を
目指すべきではないだろうか。
ただし、
ソ連や中共のような失敗の轍を踏むことは
なんとも馬鹿げた話である。
もっと創造性を働かす
新生社会主義を目指すべきだと私は考える。
しかし、
経済において共産主義というのは
微妙に今日の世界には合わないと言え、
あくまでも自由経済、
そして市場経済であることを保持しなければならない。
つまり、資本主義を否定するものではない。

ただし
富の分配ということにおいては、
今日の日本人を見るかぎり、
米国的自由というものをあまりよしとしない点を見れば、
より社会主義的国家による富の分配、
いうなれば生活保護を抜本的に改善して、
最低水準における国民生活を鑑みたときの分配を
国家主導でおこなうというのもやぶさかではない。
ただし、
これにはもうひとつ
通常の社会主義や共産主義と異なる
新たな富の分配を思考しなければならない。
それは国家依存的な民意の存在は今述べた通りであるが、
そうではなくあくまでも自由主義的競争原理をよしとし、
富を得るのも自由であるべきと思考する層は、
もはや労働者というような認識ではなく競争と分業、
そして自由と希望というような思考に基づく
きわめて資本主義的思考を満足させる社会形態を
つくる必要がある。
つまり二極化をよしとし、
一定水準において社会主義的民意を受けとめながら、
もう一方においては
自由主義、競争原理、分業制による生産性の向上、
そして合理的かつ客観性のみの経済理論、
それを実践する極が共存する社会という、
きわめて難しいが
今日の日本を見れば現実的な考えだと私は信じる。

これは、
これまでの啓蒙思想が生みだした民主主義でもなければ、
その発展として民主主義を否定する社会主義でもない。
そのうえ、
原始共産主義的な共同分配でもなく、
日本文化に根強く存在する
上部構造と下部構造の共存を目指す経済論が
新たに思考されるべきだと考える。
いうなれば、
今日のような右派的ポピュリズムの台頭に対して、
左派的な思考をぶつけることで
本来の自由と民主主義、法の支配というべき
法治国家の維持をはかるという
現実的な路線転換だと私は信じる。

おそらく、
左派が行き過ぎればどこかで揺り戻しが起き、
右派的傾向がより顕著に出現するだろう。
このような流動化こそが民主主義であり
自由経済という資本主義を維持しえると私は考える。

おそらく
右翼のくせにというような声が聞こえるように思える。
またたかだかあのようなものがなにを言うか
というようなご意見もあるかのように思う。
しかし、破天荒でなければ世の中は変わらない。
無頼なものがより無頼であるほうが世の中はおもしろい。
刺激的でなければ人は変わろうとはしない。
いずれ
細かいことをお話しする機会があることを切に祈る。