ゴールデンウィークがいよいよ終わる。

巷では、
明朝から何食わぬ顔で
4月の終りと同様の空気で5月がはじまるだろう。

メディアは
さまざまな戦争や紛争、
そして事件、事故を連日伝えた。
これらの報道にどのような意味があるのか
私にはまったくわからない。

政治家は、
お友達国家へ訪問し、
さんざんリップサービスをしたうえで
さまざまなものを利益に変えようとしている。

官僚も
今日の状況を十分知りながらも
安心を与えようと
静かな対応をしている。

メディアはまちまちだが、
これもまた
危機感を煽るということを異常に気にしている。

つまり、
日本の上位層は、
国民に嘘を宣伝しているのとなんら変わらない。

明日、5月7日から
果たして世界はどのようになるだろうか?

のんきな父さんを決め込み世間を欺くのは
もういい加減にやめた方がいい。

現総理と現政権には、
なんの理論的裏付けもなく、
ただただ独裁的な指導者に媚びるばかりで、
上位層はおそらく
国民を最後には切り捨てるつもりだろう。

これは、日本だけではない。
米国や中共、そしてロシアも同じ道を選択している。

ようするに、
いま私たちが知る国家指導者の中に
きわめてエゴイストばかりが存在していることに
気づかなくてはならない。

おそらく日本は、
媚米と媚中、しまいには媚ロと
現政権は芯がないといっても過言ではない。

それは、もはや
城を枕に討ち死に覚悟ということで、
気づかぬうちにそんな選択が用意されているのならば、
取り返しのつかぬことになるのはきわめて必然である。

 

幸福と時間の関係とはどんなものだろう。

多くの人は
幸福の時ばかりだといいのにと思うだろう。

しかし、
幸福というものが常に存在するのであれば、
それはもはや幸福とは呼べないのではないか。

人間は、
生まれた瞬間に死に向かっていく、
その時の長さがそれぞれ異なり一定とはいえない。

しかし現代人は、
そんなことも考えてはいないのではないかと感じる。

今日の日本人を見ると
「今さえよければよい」
といっているように見える。

ただし、時というものは必ず規則的に未来に向かう。
そのことを理解せず、現状に一喜一憂するのは、
もはやそれ自体、不幸といったほうがよいのではないか
と私には見える。

私は、子どものころから砂時計を見るのが好きだった。
意味などまったくなく
ぼんやりと眺めているのが好きだった。
たった3分や5分という時計にもかかわらず、
なにか愉快だった。

下にたまった砂をさかさまにすると
その瞬間からきれいな色をした砂は
空っぽになっているところに規則的に落ちていく。
当然、時計である限り
寸分たがいなく規則的でなければ、
時計の意味をなさない。

上の砂が
すこしずつ真ん中にくぼみをつくり
下へ落ちる。

下にたまる砂は、
すこしずつ山のかたちを描きながら増えていく。

なんてことのない事実である。

もう目が見えなくなって、
ずいぶんな時が過ぎていった。

記憶に残る砂時計をたまに思い出すと、
まさに人の人生そのもののような気がする。

1日1日、命を落としていく。

結果的に最後は、すべて無になる。

しかし、
現世が終わったとしても、
下に落ちていった砂が来世の命だとすれば、
なんらかの力がはたらき砂時計の上下が逆転すれば、
また同じことの繰り返しである。

輪廻転生とはこんなものかもしれない
と私には思えた。

人生が長いか短いかは、
本当の意味ではないのではないかと感じる。

時は正確無比に過ぎていく。
だから、時を無駄にしてはいけない。
というようなことが語られる。

はたしてそれは本当だろうか。

効率的に時間を有効利用し、
結果というものを追い求めることは
本当に幸福といえるだろうか。

私は自分の砂時計の砂が
だんだんと残りわずかになれば、
効率や結果というものに
あまり意味を感じられなくなった。

立ち止まることや
すこしゆっくりと無駄な時を過ごすことの方が
ありがたいと思うようになった。

考えてみれば、
私の人生に無駄という言葉は頻繁に登場する。
その無駄こそがもっともありがたく
よいものだったように、
今になって思える。

仕事ですら、
ベストパフォーマンスを積み重ねることよりも
挫折や失敗を重ねたほうが
経験というものは大きくなり意味あるものとなった。

現代人は、
コスパやタイパというようなことにこだわり、
そんなことに振り回されるほうが
よほど不幸ではないだろうか。

人は必ず死ぬ。
死を迎えるその日まで、
おそらく誰もが未完であろう。
だから、輪廻転生は意味がある。

今日の個体としての自己はかならず終わり、
新たな自己に出会う時、
以前の記憶はない。

しかし、
そこに存在する魂は、同じままであるだろう。
そうであってほしいものだと私は思う。

人間は挫折や失敗、
そして後悔という経験があればあるほど
ちっぽけな幸福でも愉快なものになる。
それどころか
ありがたいという実感を得るのかもしれない。
だとすれば、
幸福と時間というものは、
それぞれに異なることを
人にあたえているのかもしれない。

そう考えると、
時は無限ではなく
人の人生においては有限な存在である。

だからこそ、
おおいに愉快な無駄を過ごすことこそ
幸福に近づくのかもしれない。

 

不沈空母ならず、圧壊寸前のサブマリン

5月3日は憲法記念日である。

憲法記念日が来るたびに
この国では護憲、改憲が話題になる。

憲法が80年を迎えるにあたって
恐ろしいことに一度もまともな議論はなされていない。

新憲法制定のプロセスや
その憲法の持つ単一の意味のみが
賛否を問われる。

もはやそのような議論は、
憲法というものを観念的にとらえ、
かつ本質をまったく見ないものと言ってもよい。

それどころか
昭和という時代が幕を閉じ、
それ以後の議論は
より感情的で
きわめて偏った主張が
左右双方色濃く表れている。

まずもって、
この国にとって
明治以後にみられる
西洋文明的思考による法体系が
果たしてよいものかという議論が
これまで一度として聞いたことがない。

右翼や右派の一部には、
十七条憲法を基礎とすべしというような意見もあるが、
あくまでも
現行憲法は大日本帝国憲法を改正したもので、
それは西洋近代法に則った存在であり、
それとはまったく異なる十七条憲法を持ちだすのは、
もはや
議論の本質を見失ったものと受けとめざるをえない。

なんといっても
憲法を基礎につくられたすべての法は、
西洋法の体系によるもので、
古来日本独自の律令や法度というものには
おおいになじまない。

その点においても、
議論が
いかにも観念論的感情にもとづくものになっている
といえる。

また、
左派においては、
現行法を一言一句変えてはならないというような、
まるで信仰心にも近い
経典を扱うがごとく受けとめているが、
これもまた西洋近代法の概念にはそぐわぬもので、
このような思考も
極端な観念にとらわれ、
自らの感情に依存するものに違いない。

憲法とは、
その国の根幹をなす基本法であり、
これは時代の変化に伴い、
また
国民意識の変化というものを
政治家や政治運動をする者らが
真剣に受け止めるのであれば、
憲法改正は是としなければならない。

戦後81年今日の日本は、
あの大日本帝国滅亡のその時より
大いなる変化を遂げた。

よく語られる平和というものですら、
現実論で考えれば、
80年前と今日ではまったく異なるものになっている。

現行の日本国憲法は、
おおいに国連憲章に影響を受け、
私個人の意見としては、
世界でもっとも自由と平等を尊重した
ワイマール憲法から
ワイマール憲法の大失策である
緊急事態条項を除いたものだとみえてならない。

この二つの思考の中心は、
人権の尊重であり、
国連というものは
世界人権宣言にみられるように
人権重視で生まれたといってもよい。

それはつまり
平和への希求であり、
非人道的行為に対する強い反省でもある。

また
これを実現するためには
自由と平等を尊重すべきだとしている。

しかし、
これまで述べた国連の意義は、
創設当初から揺らいでいる。

それは、
民主的国連という組織に対して、
民主的ということを真っ向から否定する
社会主義や共産主義を主体とする国が
参加していることだ。

このような
民主主義対社会主義という構図は、
今日に至っても
かたちを変えながら対立は存在する。

もっとも日本にとって悲劇的なのは、
国連において
私たちはいまだ敵国であるということである。

本来、
日独は、
東京裁判とニュルンベルク裁判において
断罪されたはずである。

しかし、
西洋中心主義の国連において、
なぜか東洋的思考の
道義的責任という無限責任を課されている。

このように見ても
国連自体が
発足当初から今日に至るまで
歪みを修正できない国際組織であることは
いうまでもない。

その基本理念を基礎とする日本国憲法は、
強い理念法であり、
その理念は長い時を経て
完全に本質を見失った観念法となってしまったのである。

これをいまさら
単にGHQ責任論や
護憲勢力の平和主義、人権中心主義がもたらした
というのは、まったくの誤認である。

これまで何度も私見をはさんできたが、
あえて私の個人的意見を再度書いておく。

憲法改正は、
できなかったのではない。
しなかったのである。

なんといっても
一党独裁といってはばかるもののない自民党こそが
真の護憲者であったからである。
この護憲は、
憲法の意義にもとづくものではなく、
法的理想によるものでもない。
現実論的な思考のみに由来する。
サンフランシスコ講和後の吉田政権以来、
岸や佐藤、そして田中、その後のすべての政権が、
憲法改正を高らかに語りながら
現実重視に舵を常に切っていたからである。
それは、
日米安保という見せかけの保険を
あたかも存在すると言い、
国防論を表面的に保守や右派勢力に語ることで
政権維持、そして集票をはかったといえる。
それにもっとも大切なエッセンスに
西洋的エコノミー(経済)を前面に打ち出し、
豊かさを富と大衆に思いこませ、
議論を呼ぶようなことは
決しておこなわないという姿勢を貫いた結果である。

また、
革新やリベラルと呼ばれる左派にとっても
憲法改正議論における護憲という言葉は、
いかにも魅力的な言葉である。
なんといっても
戦後の反省という、
自民党ですら否定できない状況を逆手にとり、
平和国家という幻想にすべてを委ねた。

また、
それは人権尊重や市民平等の意識を込めることで
いかにも進歩的でリベラルな穏健派
というイメージをつくりだすことに成功した。

しかし、
その実態は、
単に反体制であり、
反自民にこだわるもので、
現実社会というものとおおいに乖離する結果となった。

そのような理想論が、
より観念的になり、
聞こえのよいスローガンとなることで
国民にとっては
聞こえはよいが実がないということに、
戦後80年という時が現実を見せだしたといえる。

その顕著な例が、社会党の消滅である。
社会党は本来、
自民党という右派に対して
明確な左派としての主張を堂々とおこない、
よい意味で切磋琢磨したともいえ、
また
自民党にとっては
社会党の主張は自らにとって
憲法改正のような議論に
よいブレーキとなることをよく理解していたため、
ありがち存在だったとみるべきである。

その点において
もっとも都合の悪い存在が
民社党だったのかもしれない。

また、
いかなる状況においても
自らの存立というものに軸足を置いているのは
公明党と共産党だろう。
この二党は、
常に政権にとって、
国民には見えないありがたい補完政党である。

このように見れば、
日本の戦後政体とは、
本質を捨て、
目に見える現象、
聞こえのよい言葉、
それを与野党すべてがよしとしてきた結果である。

ただし、
現状は、もっと危険水域に達している。
潜水艦でいえば圧壊深度すれすれである。
推力を失えば、そのまま深海の藻屑となりかねない。

なんといっても高市政権は、
これまでの実をとる政治から
見せかけや聞こえのよいものを、
総理個人の悲願と言って
自らを注目の対象とし、
国民を熱にあたったかのように酔わせるという
近年きわめて危険な政権の手法を取り入れた。

その細かい内容についてはいずれ別記する。

なんといっても、
高市総理の考えは、
あくまでも観念的感情論であり、
理論的にまったく成り立たない。

それを補完するものは、
政権にしがみつくことで
自らを利する者たちにとっての
エゴイズムにほかならない。

なんといっても、
現状、高市総理が評価を得る基礎とは、
戦後81年
自民党政権が紆余曲折の中で編み出した
実質的利益であり、
高市総理は、
その大いなる資産を取り崩しながら
政権運営をおこなっているにすぎない。

なんといっても、
高市総理の師と仰ぐ故安倍晋三元総理とは
似て非なるものである。

そのことについても後日詳細を論じたい。

いずれにせよ
高市政権は国民の依存心を煽り、
日本国民であるという帰属意識を高め、
それを見せかけの民族主義に転換したのである。

つまり、
現状の国民は、
国民国家とはなにか、
また
社会規範や構造とはなにか
というような問いをおこなうことなく、
極端に効き目の弱い麻薬を
常に嗅がされているようなものである。
効き目は弱いとはいえ、
吸い続ければ、
必ず心のみではなく肉体も蝕まれる。
気づいときは不治となり、
場合によっては、
死に至ることは必然である。

現政治家にとっては、
大政翼賛会であり、
もはや選挙は形式にすぎない。

私は、
もっとも身近で感じることのできた自民党政治家が、
もはや高市総理の麻薬に侵されるのを見て、
憲法記念日の今日、
なんとしてもこれを書きはじめたいと考える。



「博多どんたく港まつり」3・4日、福岡市中心部で開催…戦後に復活してから80年の節目
読売新聞 2026/05/02

 

 

 

人間の幸福とはなんだろうか?
おそらく
すべての人類が幸福を求めている
と受けとめたほうがよい。

しかし、
幸福というものは
どこから人間に訪れるのだろうか。

私は人類の長い歴史において、
もしかすると、
言語というものを得たことで
幸福というものを知ったのではないかと考える。

幸福とは、
本来、自己に由来するもので、
それは
他者との関係の中で
つくられるものではないような気がする。

つまり
人間が言語を得たことで
感情と思考というものを
自ら理解できるようになったことで
幸福というものを
価値あるものと認識したのではないかと感じる。

このように考えるのであれば、
おそらく
いかなる動物にも幸福というものは存在せず、
単なる本能的欲求というものは
すべてを支配していると考えたほうがよいのではないか。

たとえば、
愛玩動物である犬や猫が人間と関わる際、
いかにも喜びを感じているような姿を見せるが、
それは人間の身勝手な思い込みで、
まさに
人間というものが持つエゴイズムの結果のように感じる。

人間の幸福は、
本質的な要素として感情と思考という心がつくりだす幻想のようなものかもしれない。
仮に幻想であったとしても、
それによって満足感という価値を感じるのであれば、
事実はどうあれ関係ない。

つまり、
幸福というものは、
個人、ようするに自己のみに由来するもので、
他者からなんらかを得るというのは
二次的要素にすぎない。

とりわけ、
自己と非自己の関係において
幸福を追求するようになれば、
必ず自己の欲望というものを前面に打ち出すだろう。

人間の社会とはパイはひとつという原理で、
どちらかが得をすれば一方は損をするということが
おおいに考えられる。

なぜこのような話を持ちだしたかというと、
現代人にとって幸福というものが
単なる欲望の結果だと考えられつつある。
ようするに
言葉では互恵という言葉があるが、
実質的には
現代人にとって互恵という概念はおそらく存在しない。

場合によっては、
奪いとることが、もしくは勝ち取ることこそ
幸福と受け止める向きは非常に多い。

このように見れば、
現代人の幸福とは心に由来するようで、
実は物理的観念に由来すると言ってもよい。

このような考えが主体をなせば、
幸福とは脆く悲しげなものでしかない。

現代人は、
おそらく自己というものを見つめず、
常に非自己との関係性、
場合によっては投射的意思で自己を受け止め、
その中に幸福を得ようとすれば、
物質的要素が主となり、
本来、心で感じる幸福というものは湧き出ることはない。

そのうえ、
言語能力の低下は、
自己の主体というものを見失い、
主体の結果としての自己が存在しない以上、
言語能力における幸福が目覚めることはない。

つまり、
現代人は奪い合うことと
自己なき自己におけるエゴイズムの充足、
そして言語能力の低下における観念的思考が
欲望という最も幸福とは遠いものを得たいという
願望にさいなまれる。

もはや幸福は一般的には空虚なもので、
その本質は失われたと受けとめるべきである。

真の幸福を見つめるために、
まず自己を取り戻すここと
言語というものの本質的意味を知る必要がある。

幸福とは
自己との向きあいであり、
決して非自己から得れるものではない。

現代人は、
人間とは何かを今一度見つめ直すべきである。


 

ホワイトハウスが
国賓として訪米しているチャールズ国王と
トランプ大統領が並ぶ写真にこんな言葉を添えた。

「TWO KINGS」

少々私は疑問を感じる。
それは、
合衆国憲法に
いつから国王という称号を使用する法律が
書き加えられたのだろうか。

合衆国憲法は、
自由をもっとも大切なものとし、
民主主義こそが合衆国のあるべき姿。
それが共和制であること、
つまり大統領制を
もっとも民主的な存在と位置づけているはずである。

そのうえ、
合衆国憲法こそが
この連邦を支配し維持する根源とされているはずである。

しかし、
米大統領府は、現大統領を国王と称した。

今なお全米では
「NO KINGS」
という運動が盛んになっているにもかかわらず、
あえて現大統領をキングと呼ぶのであれば、
それは合衆国憲法という根源をも軽んじるもので、
単なるジョークでは済まない。

前回、
大統領府は、
生成AIでつくった現大統領を神に似せた画像は
勝手につくったものとしてすむが、
今回の写真は、
真の国王であるチャールズ国王と並ぶトランプ国王
と言っているも同然で、
単なるジョークにしては陳腐にして醜悪なものである。

米国は、大英帝国から独立したとし、
それを誇らしくも語る向きがある。

しかし、
現大統領がどこかで大英帝国を旧宗主国と考え、
立憲君主制というのを無視して
絶対王政にあこがれているのではないかと
見紛うばかりである。

それにもまして、
わが日本の現総理は、
まるでその大統領率いる米帝国を
宗主国としているようで、
なんとも不愉快である。

もはや米国追随ではなく、
米帝国に精神的従属を政権安泰としているようで、
皇室をいただく日本国の総理としてはいかがなものか。

このような総理のもとで
皇室典範改正を拙速におこなうことは危険極まりない。

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時事通信 国際報道部2026年04月29日08時26分配信