日本人にとって死というものは、
おそらく
言葉や
近親者の死というものにおいて
理解をしているだろう。
しかし、
そういうものに特定せず
人の死というものを見つめたことがある人は
ごくわずかだと感じる。
ましていわんや、
自らの死というものを直視する日本人が
どれほどいるだろうか。
おそらく、
自らの死を意識できた人は、
癌を患い余命を宣告された人々のような状況でなければ、
自らの死を直視し受け入れることは、
まずないといってよいだろう。
ただし、
今日の日本で
自殺が年3万人を超えるという時代もあったが、
この自殺というものは
自らの死を受け入れたというよりも、
生きることに精根を使い果たし、
結果的に自らの命を絶つというようなもので、
実際には
自らの死を直視したか否かははなはだ疑問である。
死というものこそ、
人にとって絶対的必然である。
死を迎えなかったものは
歴史を見てもひとりとしていない。
とりわけ、
物質としての人間、
物理的な存在としての人間は、
必ず死を迎えてきた。
これほど否定しがたい真実を、
現代人はなぜか遠ざけてきたといえるだろう。
しかし、
今日の世界の中で
生きていくことが容易でないことを知る人間の方が
圧倒的に多いだろう。
それは、
戦争や紛争だけではなく、
政情不安や経済的困窮、社会混乱などによって
死を日常と受けとめ、
まさに身近なものだと感じる人が
今日の国際社会には大勢存在するといってもよいだろう。
人にとって生きることは、
常に尊重されなければならない。
そのうえ人は自由であるべきである。
それは、
限りある人の人生において本来最低限の条件である。
それこそが、
私は、人権と呼ぶのではないかと受けとめる。
つまり、
人が生きることは人の尊厳を守ることである。
しかし、その反面、
人は終わりを迎えるというその日を
死というものと呼ぶのであれば、
死にも尊厳が存在するのではないか。
今日の日本人には今一つ理解できないだろうが、
日本人の本質の中で
死というものの尊厳が大切にされてきたと私は考える。
それが自然死であれ、
自然死以外の死であれ
すべからく死というものを単なる人生の終りと捉えず、
死の意味というものを意識してきたからではないか。
このことについて、
今こそ日本人は考えるべき時が来たと
受けとめる必要があるのではないか。
死というものを受けとめることができれば、
生きる意味というものがいかなるものかを
感じるはずである。
つまり、
死を受け入れるということは、
生きるということを大切に思うことである。
それは、
死を覚悟すればなにごとも乗り越えられる
というような精神論ではなく、
人はいずれは死ぬ、
それがいつかはほとんどの人にはわからない。
しかし、
必ず死が訪れるということを、
自らのものとして受けとめることができれば、
今生きていることが
いかに大切でありがたいかということを
すくなからず理解できるだろう。
そのような理解がすこしでもできれば、
一期一会という言葉も
意味あるものに聞こえてくるはずだ。
私は、
今日の日本人に死という意識が希薄になったことで
自らを見つめるというような考えが
薄れていったのではないかと思えてならない。
それは結果的に
「自分さえよければいい」、「今がもっとも大事」
というような発想にも見て取れる。
この言葉こそが
自己を軽んじる逆説的な自己否定にも聞こえてくる。
これから何度かに分けて
日本人の死生観というものを見つめてみたいと考える。
また長文になろうかと思いますが、
さし使えなければ、おつきあいいただきたいと存じます。




