お盆が近づくとなにを連想するか。

なんて話を知人としていると、
知人いわく、「おはぎ」という。
そこで私は、
「おはぎ」とは「ぼたもち」のことかと尋ねた。
すると知人いわく、
おはぎもぼたもちも同様のものであるが、
実は季節によって呼び名が違うと教えてくれた。

その呼び名は、
春は、「ぼたもち」。
なんと牡丹の花に由来するそうだ。


夏は、「夜船(よふね)」。
その由来は、米を搗(つ)く音が聞こえない、

それを夜陰に船が着くことにあてた言葉らしい。
(搗き知らず→着き知らず)


秋は、「おはぎ」。
秋の萩の花からついた名である。


最後に

冬は、「北窓(きたまど)」。
北の窓から月が見えぬということに由来するもので、

これは夏の表現と似たものである。
(搗き知らず→月知らず)

日本の風情とは、
やはり春夏秋冬というものと
密接な関係があるというものである。

また、言葉に美的感覚がおおいにみられ、
日本人の感性というものが
たん案る実体をともなうものばかりではなく、
心で感じとるものであることを物語っている。

そのような美しい話のあとに
少し土着的な話をつけ加えたい。

私が「ぼたもち」と表現したのには、
地域的な理由がある。
私は、福岡生まれの福岡育ちであるが、
同じ福岡県内に北九州というもうひとつの大都市がある。
北九州小倉は、
博多から新幹線で20分ほどの位置にあり、
近いようで遠い。
そんな小倉の街に
若いころはよく遊びに行ったものである。

小倉は、福岡の同じく城下町であり、
それなりの文化をつくっている。
明治以後になると、
日本の重工業を支える基幹産業の中心地で、
小倉は、おおいに繁栄していた。

そんな小倉だからならではの話がある。
小倉を含めた北九州の人々の間では、
このぼたもちはいわばソウルフードである。

もう40年ほど前に初めて知り驚いたのが、
小倉の屋台には酒がない。
その代わりに、なぜかぼたもちがあるのである。
私が足しげく通ったのは、
小倉城からほど近いところに軒を連ねるおでんの屋台だ。
小倉は、ぼたもちと並びおでんも有名である。
おでんの屋台といえば日本酒。
と言いたいところだが、
このおでんの屋台も酒は一切出さない。
ただし、酒の持ち込みは暗黙の了解のようで
近くの自販機から缶ビールを買ってくる人々も
少なくない。

そんな屋台でなぜかぼたもちが置かれていた。
このぼたもちは、この屋台のみの特別な話ではなく、
どの屋台に行っても必ず存在する。
いわれはさまざまあるようだが、
北九州という街が工業の街であり、
そこで働く人たちは、いわば肉体労働であり、
かなり肉体を酷使することで
甘いものを欲するという説が有力で、
屋台はなんといっても手軽に食べられるという
もうひとつの理由もあるそうだ。
そんな風習が北九州の人々には広く受け入れられ、
ぼたもちはソウルフードとなったようだ。

また、ぼたもちという呼び名も
北九州から筑豊地域では、
石炭のぼたとかけたという説もあるようで、
なんとも地域性を感じさせるものである。

今述べた筑豊地域、飯塚や田川は、
ご存じのとおり石炭の一大産地である。
伊藤伝右衛門に代表される石炭王が活躍した街で、
その時代は現代の福岡よりもより華やかであった
と言われる。
炭鉱労働者もまさに肉体労働であり、
それが原因で筑豊地域には福岡を代表する菓子の名店、
メーカーが多いともいわれる。
全国的に言えば千鳥饅頭もそのひとつで、
本家本元は筑豊である。

それと、歴史をもう少しさかのぼると、
この飯塚から
北九州黒崎を通り小倉、周防灘につながる地域までを
長崎街道という街道が通っていた。
九州から東を目指す際、
瀬戸内海を通り畿内に着くという回路が存在する。
江戸時代に長崎は外国との窓口で、
そこに砂糖や南蛮菓子が多く持ち込まれたことを
ご存じだろうか。
その砂糖は、長崎街道を通り畿内に運ばれた。
つまり、
長崎街道(シュガーロード)沿いに
砂糖が運ばれたことで、
その砂糖を原料とする菓子の発達が見られたという。

このような話は単なる余談で、
知人と私の話題はお盆にかかわるもので
おはぎかぼたもちかという議論もさることながら、
菓子の話はまったくの余談である。

会話とは不思議なもので、
たった一つの話題が話していくうちにさまざまに広がり、
会話とは人と人の心をつなぎ、
そこに豊かさというものをもたらしてくれるものと思う。

もう一つ余談をつけくわえておこう。
昨今、北九州のうどんチェーンが全国展開しつつある。
そのうどんチェーンにも
このぼたもちはメニューに盛り込まれ、
おおいに客の舌を楽しませているという。
これも北九州発祥ならではのものである。

 

 



 

8月9日は日本人にとって屈辱的かつ悲しみの日である。

 

6日の広島に続いて9日は長崎に原爆が投下された。

被害は甚大で7万人ともいわれる市民が

一瞬にして殺戮された。

長崎に投下された原爆は、

広島で使用された原爆とは異なるものである。

広島はウラニウム爆弾で、

長崎で使用された原爆はプルトニウム爆弾

というように異なる種類の原爆が実戦使用された。

 

ハリー・トルーマンは

早期に戦争を終わらせるという理由を語っているが、

果たしてそれは本当だろうか。

私には、にわかに信じがたいものがある。

もはや8月に入ってからの日本は死に体であり、

ポツダム宣言受諾も

目前に迫っているというような時期で、

ここで注目しなければいけないことは、

トルーマンがというよりも

原爆開発の中心であった

マンハッタン計画の一部科学者が、

この原爆というものの真の威力を知りたかったという

マッドサイエンティストの強い欲望が

二発の原爆を投下させたのではないかと私は思う。

爆弾の種類が異なることや

広島と長崎では街の形状も違い、

それにもましてあれほどの都市爆撃がくり返される中、

広島と長崎はほとんど被害を被っていない。

つまり、

原爆投下によって

どれほど街が被害を受けるかという実験を

現実の人間の住む街で試してみたかった

というのが本音ではないか。

ようするに広島と長崎は狂気の科学者の実験場であり、

その実験は、

21万ともいわれる生きた人間をサンプルとする、

まさしく人体実験である。

 

おそらくトルーマンも原爆を手にすることで

世界最強の大統領になることを

現実のものとしたかったのではないか。

トルーマンは、いわばルサンチマンであり、

ルーズベルトのような

エスタブリッシュメントではなかったことから

原爆を手にし、

歴史に残る大統領となりたかったのではないか。

加えて、

ソ連のスターリンは、

もっとも醜悪な共産主義者で相容れぬものがあることは

十分に承知していただろう。

そこでトルーマンと

マンハッタン計画の一部科学者らは利害が一致し

二発の原爆投下という悪魔の所業に魅せられたのだろう。

開発の中心人物であるオッペンハイマーは、

のちにアインシュタインと共に、

この最悪の兵器をつくったことに後悔する。

 

それに加えて、

カーティス・ルメイという陸軍航空隊将軍は、

空軍創設の夢を果たすため、

より大きな成果を望んだといえる。

ルメイは、

勝つためには人の命などなんとも思わない人物である。

それは

ドイツと日本における無差別爆撃をみればあきらかで、

緻密な計画で

大量殺戮はいかに効率的におこなえるかという、

これもまた悪魔に魅せられた野望を実現したといえる。

その集大成が8月9日の長崎である。

 

戦争は、

狂気に満ちあふれた自己顕示欲が虚栄と結びつき、

より最悪な結果を生みだすものである。

 

もうひとつ昭和20年8月9日は、

日本にとって悲劇のはじまりである。

トルーマンは、

スターリンよりも先に原爆を手にすることで

優位な立場を得た。

チャーチルは、

スターリンの参戦によって

戦局を一変させようと考えたが、

トルーマンはルーズベルトと違い、

もはやスターリンが

日本へ戦端を開くことをもはや望まなかった。

それは逆にスターリンの焦りを生み、

長崎の原爆が投下される8月9日に

日ソ中立条約を一方的に反故にして

満州、内蒙古、そして南樺太に

極東ソ連軍をなだれ込ませた。

千島列島へは、

海を挟む関係で8月15日を越えて

18日に上陸作戦を敢行した。

つまりスターリンは

日本に対してだまし討ちをしたということになり、

そのうえ

8月15日のポツダム宣言受諾後も侵攻を続ける。

一部残存兵力の日本軍も

その侵攻に対して自衛戦闘をこころみるが、

長く続けることはなかった。

それは当時の日本軍(皇軍)は、

昭和天皇の終戦の詔を絶対なものとしたため

継線を避けたといえる。

これものちにおおいなる悲劇を生んだ。

残留する日本人(民間人)らは

なすすべなくソ連軍に蹂躙され、

一部はシベリアやモンゴルに抑留された。

それに武装解除をした日本軍将兵も多数抑留され、

結果的に戦闘以上の犠牲を出すことになる。

ただし、

このソ連の行為は、すべてにおいて国際法違反であり、

かつ非人道的行為だといえるもので、

日本人にとっては許しがたいものである。

 

それだけにとどまらず、

81年という年月が経ってもなお、

いわゆる北方四島は不法占領状態で

打開の道筋は見えない。

 

何度も申し上げたが、

戦争は、狂気そのもので、

冷静さなどかけらもないと言ってよい。

8月9日という1日をみても

なにひとつ容認できるものはなく、

勝者がいかに理由をつけようとも

なんの意味もない詭弁にすぎない。

当然であるが、日本側の責任も免れない。

政府や軍部も

当事者として明確な責任を負わなくてはならない。

 

しかし、

ここで多くの読者と異なる見解が私には存在する。

それは、戦争というものが

政治指導者、軍上層部のみで遂行できるものではなく、

国民の声がなければ

よほどの独裁でもない限り戦争継続は不可能である。

ようするに

大東亜戦争は

日本をあげての戦争であるということになる。

昭和という時代に入り、

日に日に戦争の足音が近づく中、

国民の声(世論)は戦争突入へ突き進んでいった。

それは、

政治家の言葉だけではなく、

また軍部の誇張したスローガンだけでもない

新聞というメディアを含めた

日本全体の歓喜にも似た空気が追い風となり、

1億国民が戦争を望むかのような空気になったのである。

つまり大東亜戦争は、

責任者のいない戦争のようなものもので、

明治にはじまり昭和20年8月に終わる国の叫びが

生み出した時代であり

戦争の歴史である。

 

このように見れば、

日本は当然ながら米英、そしてソ連も

狂信的な戦争肯定論者だったといえる。

しかし、

その狂気や虚栄、指導者らの欺瞞は

あの痛ましい戦争の歴史を見ても今日なんら変わらず、

また同じことを繰り返しつつある。

 

今日、国際社会に広がる

ポピュリズムとナショナリズムという

エゴイスティックな思考と感情は

なにひとつ教訓というものをみることなく、

同じ空気と同じような追い風を得て

破滅的方向へ自ら進んでいるようだ。

 

日本も

「今さえよければよい。自分が大事。」

というような心を多くの人がよしとすれば、

おそらく悲劇は何度も訪れるだろう。

 

 

8月6日は世界を変えた1日である。

81年前の今日、

たった一発の爆弾が炸裂した瞬間、

新たな時代がはじまった。

 

昭和20年8月6日午前8時15分、

たった一発の爆弾が広島市中心部で炸裂する。

その時、

人間をはるかに凌駕する悪魔の力が広島を呑み込んだ。

その悪魔は人間の目で見ることもかなわぬ閃光を放ち、

すべてを闇に消し去った。

つまり、

米国が世界初の原子爆弾を実戦使用したというもので、

これまでの兵器の常識を

はるかに超える威力を見せつけた。

一瞬にして広島の14万人※が

命を失ったのもその威力のすさまじさの証である。

(※放射線による急性障害が一応おさまった

昭和20年(1945年)12月末まで)

 

ただし、ここで言う悪魔は、

その爆弾を投下した爆撃機と搭乗員を指すものではない。

彼らもまた戦争被害者であるといえるだろう。

ようするに、

あの日、あの時間に広島という街において

時を共有したすべての者は被害者である。

 

この作戦を事実上指導したカーティス・ルメイは、

戦争はいかに戦果をあげ、

いかに結果を出すかが重要だと言っている。

つまり、ルメイのごとき将軍にとっては、

人命よりも戦争という悪魔の所業を大事なものだとし、

そこにどれほどの犠牲があろうとも

勝利にこだわるといういびつな軍人の心理が

悪魔の片棒を担いだといえる。

 

それはハリー・S・トルーマンとて同様である。

 

ようするに8月6日の原爆投下は、

戦争というものの勝敗のつけ方が決定づけられた

その日だといえる。

 

第二次世界大戦終結後、

国際連合が誕生したにもかかわらず、

核戦争の脅威は日々増大している。

今日をみても核戦争はいつ起こってもおかしくない。

核抑止という思考は、もはや破綻しつつある。

 

それは、

ロシアのプーチンのようなエゴイストが

ルメイの言葉どおりに勝利のみにこだわれば、

ウクライナは

常に核の脅威にさらされるということになる。

 

また、

米国のトランプがイランの核を脅威とみなすものの、

イスラエルの核は容認し、

自らも核超大国であることを誇らしげに語るのであれば、

いつ何時、どこに核を使うかわからない。

特にトランプのごときポピュリストは、

大衆がポピュリズムをよしとした瞬間、

戦争は肯定され勝利のみを結果とするだろう。

 

それだけにとどまらず、

一度動き出した歯車は容易に止められず、

今日の米国が陥っている泥沼の状況は、

これまで何度もくり返された。

 

為政者というものは、

どれほど良心を持ちえるのだろうか。

おそらく、

権威と権力という甘い毒薬に魅せられれば、

普通の人間がまたたく間に悪魔と変化するのだろう。

これが今日の世界である。

 

ここでもう一つ違う視点で

8月6日の広島というものを考えてみたい。

原爆投下のその日、

広島には米軍の兵士が存在していた、

捕虜となり、憲兵隊本部に収容されていた。

憲兵隊本部は爆心地に近く被害は甚大なものである。

つまり、

そこに収容されていた米軍捕虜は原爆の犠牲となった。

そのことは、米本国では遺族に知らされてはいない。

これが戦争というものの狂気である。

当然、トルーマンとルメイは

広島に同胞がいることは承知していたはずである。

しかし、

勝利のためには犠牲はつきものだと言わんばかりに

見殺しにした。

そのうえ、その事実を隠ぺいしたとなれば、

民主主義というものに対する背信である。

しかし米国は、長い年月、

米国兵士の被害については語らなかったそうだ。

 

ここで注目すべきは、

自らも被爆者であり、

在野の歴史研究家の森重昭氏という人物が

米軍兵士に関する調査を長い時間をかけ

ひとつひとつ積み上げたうえで

米国の遺族らに事実を伝えたという偉業である。

 

森氏は、今年3月に亡くなられた。

すばらしい偉業は、こののちも称えられるだろう。

 

森氏は生前、戦争被害者に国境はないと言われている。

ようするに、

広島における原爆被害者は、

国籍を問わずみな戦争被害者で

誰一人取りこぼしてはならないという

強い意志を持たれていた。

誰の援助も受けずコツコツと調査し、

原爆というものの実相を明白にした。

それが、米国大統領バラクオバマ氏の行動につながる。

 

このように見れば、

戦争反対、原爆反対、口で言うのは簡単だが、

実際に反対するという立場を貫くのは容易ではない。

しかし森氏は自らの姿を見せることで、

真の反戦、真の反原爆というものを

見せてくれた一人だと私は考える。

 

今なおこの日本において反戦、反核のようなものは、

つまらぬイデオロギーにさらされ、

実体をともなわない活動のための活動、

もしくは運動のための運動となり果てている。

これでは、反戦も反核もあったものではない。

これまでも何度も言ってきたが、

森氏のように

自らの強い意志として非戦や不戦の意志を貫き、

信じ続けることこそが、

今我々が考えなくてはならない現実である。

 

勇ましく猛々しい言葉は空しく。

心の声ともならない見せかけの人道主義や人権尊重も

空しい。

 

なによりも自らが考え、自らが信じる道を模索し、

それを微弱、希少であれ実践されることが不可欠である。

 

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今日もとにかく熱い。
毎日、毎日、体温と同等の気温が老いた体に堪える。
こんな暑い日は、冷たいものが欲しくなる。

そうそう、すこし前のことであるが初体験をした。
とは言っても、あくまでもビールを味わっただけである。
ビールといってもさまざま種類があり、
日本以外でつくられるビールは何百と存在するそうだ。

初体験だというビールは、
中欧にあたるチェコのウルケルビールという
少し趣の変わったビールである。
このようにいうとビールを好む方であれば、
小瓶か缶ビールを想像されるだろうが、
そのウルケルビールは、
なんとサーバーから注がれるドラフトビアである。
これはなんとも摩訶不思議で、
このビールがサーバーで売れるほど
世に出回っているのかと疑問をいだいた。
実際のところ
どの程度に広まりを見せるのかはわからないが、
かなり思い切った売り方である。

味わいは、
中欧のビールらしく深みがあり、
コクという点においてもそれなりの評価ができる。
しかし、ドラフトということを加味すると、
やはりどこかドラフトらしいキレというものも存在する、
これまた不思議なビールである。

厳密にはビールの色合いを語れるものではないが、
エール系のビールほど色は濃くなく、
それでいて米国系の薄い色でもない
独特の色を見せているそうだ。
私には残念ながら
もはや色を見極めることができないゆえ、
他の方の見極めを参考にさせていただいた。

いずれにせよ、
まったく初めて口にしたビールであり、
通常、私はあまり新しいものを好まないが、
このビールはなかなかのものだと感心しきりである。

本来、中欧のビールということは、
ドイツビールのように
ソーセージやポテトというものにあうといえるが、
このビールに出会った日は、
タコスとあわせていただくことにした。
意外にも相性がよいものであった。
特に、このウルケルビールを扱う店は、
長年よしみを紡いだ歓楽街の店で、
この店でいただくタコスはなかなかのものである。
なかでもかなり辛いソースをつけると
なおさらにビールとの相性はよい。

その日も暑い夜だったので、
その辛さと冷たいビールがなんとも心地が良かった。

またウルケルに会いに行きたいと思うが、
なかなかそうもいかず、
また会えるだろうかと気をもむ日々である。

 

 

先日、夏というものを感じさせる花のことを
お伝えさせていただいた。
それは、あさがおである。
あさがおは
たしかに夏というものを感じさせてくれるだけではなく、
日本人的情緒を感じさせてくれる花だともいえる。

夏の花といえば、
より強い印象を感じさせてくれる花がある。
それはひまわりである。

ひまわりは、太陽と共に生き、
太陽の明るい光と非常に良い相性で、
あの黄色という色をより鮮やかなものとする。
まさに夏休みという言葉にも似あう花である。

これも以前述べたが、
8月は夏休みでもあるが、
同時に
戦争と平和というものを感じる必要のある月でもある。

反戦という言葉も
どことなく遠ざかっていくような今日このごろ、
世界は言葉で反戦を訴えながら、
それとは裏腹に戦争はおさまることを知らない。

ここで反戦という言葉の表現について
少し私なりの感想を述べさせていただきたい。

反戦をテーマにした文芸作品や映画は数多くある。
さもすれば陰惨で悲劇的な戦場を描くことで
戦争の悲惨さを伝えるものもある。
また、
人間の心に深く突き刺さるような傷というものを表現し
反戦というものを訴えることもある。
どちらもそれなりの表現だと思うが、
そのような表現の中に
奇妙にイデオロギーというものが塗り込められると、
その反戦という主題は
色あせていくような気がしてならない。

ここで紹介する映画は、
単なる反戦という意味ではなく、
戦争のもたらすありえそうな悲劇を描くことで
人はどうあるべきだと
アンチテーゼのように表現している映画を紹介したい。
ただし、あくまでも私の主観的印象であり、
私は映画解説者でもなく
ただの映画ファンとして次の映画を紹介したい。

それは、
「ひまわり」1970年
イタリア・フランス・ソ連・アメリカの合作の
映画である。

この映画はひとつ特徴的な意味がある。
東西冷戦の真っ盛りに
東西が協力してつくった映画である。
政治的には壁を越えることはできないが、
映画という文化においては
その壁を乗り越えることができる。
このことは重要な意味だと私は考える。

映画の名前は大まかに触れるが、
気になる方はこの映画を見て
ご自分で感じていただくことが
よいのではないかと思うゆえ、
私にとって印象に残る部分だけを抜粋させていただく。

第二次世界大戦終盤に向かう頃、
イタリア軍の兵士が東部戦線、
いわゆるソ連との戦いに送り込まれることが、
この映画のメインを飾ると思う。

主人公は、ソフィア・ローレン演じるジョバンナであり、
その夫をイタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニが
アントニオという役でこの映画を引き立てる。

二人は戦争のさなか結婚し、
アントニオは結婚生活もわずかにして
過酷な東部戦線に送られる。
戦場に向かうアントニオは、
決して悲壮感を見せず、
どこか歓喜の中、戦場に向かうという、
なんともイタリア人らしい明るさを見せる。

それとは対照的に
ジョバンナの表情や佇まいは、
それとは異なるものであったような気がする。

結果、戦争が終わってもアントニオは戻らず、
その状況を受け入れられないジョバンナは
東部戦線を目指しアントニオを捜す。

舞台はウクライナという想定で、
欧州東部戦線において
独伊とソ連が血で血を洗う激戦をくり返した土地である。
このウクライナは、第一次世界大戦、
そしてロシア革命における戦闘においても
苛烈な戦場であったことは歴史の知るところである。

特に私が印象に残っているシーンは、
誰もがこの映画の
最も印象深いシーンだと思うとおぼしき広大な大地に
ひまわり畑が延々と続くシーンである。
そこにジョバンナが立つ姿は、
さまざまなものを想像させてくれた。

アントニオはともかく、
このひまわり畑の土の下には
累々たる両軍兵士の亡骸が眠っているところだ
ということである。
その兵士たちが、
この地で白兵戦をくり返し死んでいったとすれば、
その兵士たちは、
ひまわりとなってこの地によみがえった
と連想することもできる。
また、
その兵士たちが太陽の光を浴びることで
新たな生命を見せつけているような気もする。

ただし
その兵士たちが好んで戦ったとは私には思えない。
争いたくて争ったわけではない。
「やむなく」という言葉で語ったほうが適当だろう。
そんな戦争がこの土地で繰り返されたことを
印象的に表現しているのではないかと私は感じる。

このシーンにおいては、
ヘンリー・マンシーニのあの有名な曲が
他のシーンとは違い壮大な曲のようにも思えた。
それ以外のシーンでは、
どこか欧州の悲哀やおだやかさを感じさせる曲で、
特に駅のシーンでは
壮大さというよりも抒情的であると私には感じた。
そして、この映画の終焉まで少し意外な展開を見せる。
しかし、その後の展開も、
まさしく戦争というものが生み出した
人間の在り方かもしれないと個人的に強く感じた。

特に後半の駅のシーンは、
戦争というものがなにひとつ生まない、
無意味で、さもすれば無味乾燥なものだと私には映った。

しかし、
ここでこの映画を話題に持ちだしたが、
この映画を反戦映画としてお伝えしているわけではない。
あの戦争のもうひとつの事実であり、
創作作品とはいえ、
人間の関係性や、その心の動き、
なんといっても空間と時間が人を大きく変え、
さもすれば変わった自分の方が現実となり、
過去とはどこかで惜別せざるをえないという、
ある意味、悲劇というものを
戦争というものがつくりだすということを、
この映画は見せてくれているように私は思う。
だからこそ、
「非戦」という意味でも
この映画は印象的なもののように思える。

戦争は、個人が起こすものではない。
国家というか、国家指導層が、
利害や自らの権威、権力をかけて引き起こす大罪である。
つまり、
戦争を指導する為政者の多くは
兵士たちを英雄として戦場に送り、
戦死すれば英雄として讃える。
しかし、
その為政者らに、
果たして兵士は英雄に見えているだろうか。
ただただ国益や国の威信という嘘で固めた言葉で
機械的に送り出され、
戦争という重石に押しつぶされるのを見ながら
平然と、
また冷静に見ているだけにすぎないのではないか。
そうでなければ為政者や軍の指導部は、
おそらく正気では存在できないだろう。
まさに戦争は狂気であり、
それは戦場の兵士だけではなく、
安全なところに身を置き、
戦争遂行を叫ぶ者たちにとっても
狂気そのものではないか。

現に「ひまわり」の映画の舞台になったウクライナは、
5年以上戦争を続けている。
戦争当初、
識者らは非常に短期間でロシアが勝利すると
奇妙な冷静さで語っていたが、
戦争はいまだ終わりが見えない。
私は、この戦争がはじまったその時から
この戦争は容易に終わることはないと周囲に語った。
それは、
この地をめぐる歴史を見れば容易に理解できるだろう。

戦争は、物理のみで語るべきではない。
どんなに科学や技術が進もうとも、
戦争はどれだけの人命を失ったかがその結果である。
つまり戦争の本質は、
太古以来なにも変わっていない。
それにもまして、
イランにおける戦争は、
もはやなんのための戦争なのか、
おそらく世界中の誰もがわからないだろう。
戦争を仕掛けたイスラエルと米国も、
もはや意味を失い、
さもすれば両国の政治指導者が
民主主義的価値の選挙というものに
尋常ならざる意識で向かっているというだけの
意味しかないのかもしれない。
それではまったく無意味な戦争であり、
そこには英雄たる兵士などありえない。
あるとすれば、
首相や大統領という自己欺瞞に満ちあふれた
愛嬌のないピエロの英雄が
身勝手に存在しているだけだろう。
まさにつまらぬものだ。
だからこそ
「反戦」をイデオロギーのようなもので語るのは
危険極まりない。
それは、無責任な「反戦」を進めるだけで、
決して結果はあらわれない。

一人ひとりが
「非戦」や「不戦」というものを信念として持ち続け、
かつ民主主義国家であれば
民主的プロセスの重要な選挙において
自らの意思を示し
戦争に至らせないことを信じ行動するほかない。

その点において、
今日語られる権威主義的専制国家よりも
腐敗、堕落した民主主義国家の方が、
まだやり直しができると私は信じる。

そのような視点において
「反戦」とは向きあうべきではないか。

いずれにせよ、人は争うものである。
そのことは忘れてはならない。
だからこそ争いを拡大させないために
対話と議論が不可欠である。
そうでなければ「ひまわり」のような現象は、
どれだけ時代を経ても変わらず起こるだろう。
あれは単なる悲劇ではない。
だからといって感傷的な物語でもない。
あれは、
これまで幾度もくり返された人間の愚かさである。


◆映画の名シーン『ひまわり』
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