日本人にとって死というものは、
おそらく
言葉や
近親者の死というものにおいて
理解をしているだろう。

しかし、
そういうものに特定せず
人の死というものを見つめたことがある人は
ごくわずかだと感じる。

ましていわんや、
自らの死というものを直視する日本人が
どれほどいるだろうか。

おそらく、
自らの死を意識できた人は、
癌を患い余命を宣告された人々のような状況でなければ、
自らの死を直視し受け入れることは、
まずないといってよいだろう。

ただし、
今日の日本で
自殺が年3万人を超えるという時代もあったが、
この自殺というものは
自らの死を受け入れたというよりも、
生きることに精根を使い果たし、
結果的に自らの命を絶つというようなもので、
実際には
自らの死を直視したか否かははなはだ疑問である。

死というものこそ、
人にとって絶対的必然である。

死を迎えなかったものは
歴史を見てもひとりとしていない。

とりわけ、
物質としての人間、
物理的な存在としての人間は、
必ず死を迎えてきた。

これほど否定しがたい真実を、
現代人はなぜか遠ざけてきたといえるだろう。

しかし、
今日の世界の中で
生きていくことが容易でないことを知る人間の方が
圧倒的に多いだろう。

それは、
戦争や紛争だけではなく、
政情不安や経済的困窮、社会混乱などによって
死を日常と受けとめ、
まさに身近なものだと感じる人が
今日の国際社会には大勢存在するといってもよいだろう。

人にとって生きることは、
常に尊重されなければならない。

そのうえ人は自由であるべきである。

それは、
限りある人の人生において本来最低限の条件である。

それこそが、
私は、人権と呼ぶのではないかと受けとめる。

つまり、
人が生きることは人の尊厳を守ることである。

しかし、その反面、
人は終わりを迎えるというその日を
死というものと呼ぶのであれば、
死にも尊厳が存在するのではないか。

今日の日本人には今一つ理解できないだろうが、
日本人の本質の中で
死というものの尊厳が大切にされてきたと私は考える。

それが自然死であれ、
自然死以外の死であれ
すべからく死というものを単なる人生の終りと捉えず、
死の意味というものを意識してきたからではないか。

このことについて、
今こそ日本人は考えるべき時が来たと
受けとめる必要があるのではないか。

死というものを受けとめることができれば、
生きる意味というものがいかなるものかを
感じるはずである。

つまり、
死を受け入れるということは、
生きるということを大切に思うことである。
それは、
死を覚悟すればなにごとも乗り越えられる
というような精神論ではなく、
人はいずれは死ぬ、
それがいつかはほとんどの人にはわからない。
しかし、
必ず死が訪れるということを、
自らのものとして受けとめることができれば、
今生きていることが
いかに大切でありがたいかということを
すくなからず理解できるだろう。

そのような理解がすこしでもできれば、
一期一会という言葉も
意味あるものに聞こえてくるはずだ。

私は、
今日の日本人に死という意識が希薄になったことで
自らを見つめるというような考えが
薄れていったのではないかと思えてならない。

それは結果的に
「自分さえよければいい」、「今がもっとも大事」
というような発想にも見て取れる。
この言葉こそが
自己を軽んじる逆説的な自己否定にも聞こえてくる。

これから何度かに分けて
日本人の死生観というものを見つめてみたいと考える。
また長文になろうかと思いますが、
さし使えなければ、おつきあいいただきたいと存じます。

 

前回の投稿において、
日本人の心の中に武士道というものがあったとした。

本来日本人は、武士道だけではなく、
自らの生き方を道という考えにおいて一貫性を保ち、
その普遍的価値を見つけだそうと
もがき苦しんだといってもよい。

しかし、
今日の日本人に道という考え方が存在するだろうか。

おそらく
現代人には
あまり意識されない考え方となったのではないか。

これは極論であるが、
おそらく集団的共通性を持った道という概念が、
すこしばかりでも存在しているのは、
任侠道かもしれない。
ただし現代の暴力団と呼ばれる組織論の中に
すべて任侠道が根付いているか否かは疑問であり、
もしも任侠道が現存するとすれば、
ごく限られた範囲の人々の中に存在するのかもしれない。
すくなくとも私の中に、この人物であれば
おそらく任侠道はいまだ息づいているだろうと
おぼしき方もいないわけではない。
それほど日本人において道という概念は
希少なものとなったといえる。

おそらく、
今日の日々を生きている人々には、
とりたてて道という概念は必要とされていないだろう。
このような状況に一足飛びになったわけではない。

これはあくまでも私個人の考えであるが、
日本人が道というものを求めなくなったのは、
明治という時代を迎えたことが
もっとも大きいのではないか。

明治はご存じのとおり、
文明開化が叫ばれ、近代化の名のもと
西洋文明がもっとも最先端とされた時代である。
それは文明的、もしくは科学的論理性を
すべてよしとしたわけではないが、
残念ながら表面的現象論において、
明治の日本人たちは、
本質は別として外形的生活様式を
日本本来のものから西洋様式に変えたことが
大きな要因ではないか。

西洋的生活様式の基本的テキストは、
キリスト教の概念に従った生き方を基礎とし、
発展してきたものだといってもよい。

つまり日本人には、
武士道に代表される未知の概念と
西洋人が基本としたキリスト教概念に基づく生活様式が
混在することで、
どちらもが希釈されてしまったとみてもよいだろう。

ようするに、
日本人は基礎となる意識が希薄しつつあったといえる。

しかし、
それを補完したものが西洋文明論的社会制度であり、
精神的道徳観から
法律を基礎とする倫理観への移行によって、
日本人は
社会規範や社会構築というものを維持してきたといえる。

それは結果的に
日本人が今日のごとく欧米化した生活様式の中に、
微妙な日本人的意識を混在させつつ、
日本というものと
諸外国から見る日本らしさというものを
維持してきたといえる。

さまざまな分野において、
東洋から西洋への移行がはかられたが、
あえて前回、
武士道というものに言及したことを鑑みて、
明治時代は
武士道がどのような形で変化していったかについて
少し考えてみたい。

明治維新は日本の歴史において
もっとも苛烈な戦いであっただろう。
それは、
本来、日本において戦というものは武士がやるもので、
一般大衆は相知らぬことといえたが、

明治維新では、
武士としての役割を持たぬ人までが新式の銃をかつぎ、
旧態依然とした武士たちに向けて
発砲せざるを得なかったことの意味は大きい。

つまり、
武士道のような戦場に出る覚悟を持っていない人々に
簡単な軍事教練で
兵士として戦をやれと言った状況において、
その人々たちの精神論は何に由来したのだろうか。
おおむね明確な意思というものはなかったと言え、
人を殺すという意味すら
単に敵を倒す、倒さなければ自らが死ぬ
というような強迫観念の積み重ねが、
にわか仕立ての兵士たちを
戦争に向きあわさせたというようなものではないか。

それは明治10年、西南の役のころになると、
まがいなりにも西洋式軍隊というものに変貌していく。
その際、日本は制度化が遅れていたこともあり、
軍人と治安維持のための警察官というものが
明確に分けられてはいない。

ただし、
西南の役を単なる暴動の発展型と見れば、
警察権による治安維持のための鎮圧とみれば
いささか疑問は残るが、しかりだともいえる。

いずれにせよ、
武力装置としての集団が
武士という認識から切り離され、
国民すべてが負わなければならない
義務の一環と移行したといえる。

つまり、
このような状況下で、
武士道というものは希釈され、
希薄なものとなりつつあったといえる。

ただし、
西郷率いる薩軍は、最後の武士集団であり、
これは軍隊とは異なり、
武士道という明確な意思のもと
近代的軍隊である政府軍に立ち向かったと言え、
この西郷軍の敗北は、
武士という存在の終焉だったとみることができる。

それ以後の日本では、
軍事というものをすべて西洋式に変貌させ、
武士だったものだけではなく、
すべての国民の中から軍人を養成し、
近代的軍隊を整備していった。

そして、
明治23年に日清戦争に突入し、
日本の近代的軍隊が
世界に通用する軍隊となったと認識されていく。

その後、
南下政策をとる帝政ロシアと向きあわざるを得ず、
明治37年には、
日露開戦という日本軍最大の試練が起きた。
帝政ロシアの軍隊は世界に名を轟かす精強な軍隊で、
欧州各国がその軍隊を恐れるほどであった。
いまだ西洋式軍隊が
根づいたか否か疑問が残る状況を残していた日本軍は、
日露戦争において
精神論のようなものを使わずして勝ちえない
と考えた向きがある。

このころの帝国陸海軍は、
軍人勅諭を旨とし、
それを大切に守ろうと試みたといえる。
それによって、
帝国陸海軍というものが、
帝政ロシアの軍隊に勝るとも劣らぬ精神構造において
戦争遂行を成し遂げたといえる。

ただし、
私個人の受けとめとして、
軍人勅諭は
必ずしものちによい結果を生みだしたか否かは
疑問視している。

この日露戦争は、
ある意味国家の威信をかけた戦いという一面と
ロマノフ王朝の軍隊と皇軍たる日本軍という、
もうひとつの意識が存在した可能性がある。

ようするに
ロシア軍は希薄なれども騎士道というものを重んじ、
それに対して、
皇軍たる日本軍は顧みるかのように
武士道という精神を根底に持ったといえる。
それは、
日露戦争によって
日本軍人が人道という意識を保ちつつ、
武士の情けという奇妙な認識において
ロシアの俘虜を扱った点において
それを見ることができるのではないか。

辛くも
当時のセアドア・ルーズベルト大統領の仲介によって
日本はよい条件で講和を取り付けたといえる。
この講和を勝利とみるか否かはわかれるところだろう。

その後、日本の軍隊は、より強固なものを目指し、
軍人たるものの心得というものを
軍人勅諭を基礎とする
軍人精神というものに見出そうとした。
それは、
日本の国際化と日本独自の精神訓が
一体となったものかもしれない。

そして、
第一次世界大戦において
日本軍は中国青島のドイツ軍を降伏させた。
その際においても、
日露戦争当時と同様に
ドイツ軍俘虜の取り扱いについては
かなりきめ細かく人道に配慮したといえる。

この人道意識は、
単なる軍人の意識というよりも
国際化を目指す当時の日本人全体の意識が
国際条約やそれに伴う規範意識を高めたといえる。

しかし、
大正時代における国際化の意識は、
社会全般においては若干退廃的なものとも受け止められ、
軍隊組織維持、そして軍人精神を培う上では、
必ずしも好ましいものだとは受け止められなかった。

ゆえに、
昭和に時代が変わると、
帝国陸海軍は、より強固な組織、
そして武勇を誇る勇猛果敢な軍隊を目指した。
個人的資質よりも、組織論を重視したといえる。

このことがのちに、
帝国陸海軍を奇妙な呪縛に陥らせたといえる。

昭和に入ると、
軍人勅諭は単なる軍人精神の象徴ではなく、
この軍人勅諭は天皇自らの言葉であり、
勅命のごとく扱われ、
神聖にして侵すべからずという聖域的存在となっていく。

ようするに、
軍人勅諭が単なる軍人の精神訓ではなく、
帝国陸海軍の基本法令のごとく重視され、
さもすれば、
軍人のための憲法となったといえる。

ここまでくると、
明治以後、
残り香的ではあれ維持された武士道という考えは、
完全に封印され、
武士道の中でも特筆された
当時の軍隊にとって都合のよいものだけが
生き残ることになる。

もっとも顕著なものは、
武士道は死ぬことにみつけたり、
この言葉ではないか。
ただし、
この言葉は、死をもっとも崇高なものとし、
死をいとわずという端的なものではない。

しかし、
帝国陸海軍では、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
というような極端な考え方に変貌していく。

以前武士について投稿したが、
江戸以前の武士たちは生きるために戦う。
自らの死とは身の証である。
このように考えた。

江戸の武士たちは、
自害というものを
もっとも最終的な責任の結果として受け止めた。
それは武士の本懐として受けとめられていた。

しかし、
昭和の軍人精神は、
個人というものよりも組織を尊重したため、
自決、もしくは自裁を
玉砕というものに結びつけたといえる。
これは完全に武士道には存在しない考えで、
昭和の軍人精神そのものだといえる。

そのうえ、
国際化の波が
日本を害したというような認識も少なからず存在し、
国際的規範というものを否定的に見たため、
人道主義よりも軍人精神が優るものとなり、
外国人捕虜に対する違法な取り扱いもやむなし
と認識されたのではないか。

このことが、
帝国陸海軍を強固な軍隊という意識の呪縛を強め、
組織論的に
軍隊の目指すべき姿と
個人個人の武士としての明確な意思というものを
完全に崩壊させ、
軍人精神というものが
かえって滅びの美学となっていったのではないか。
これによって大東亜戦争が大敗北という結果を導き出し、
その結果は、軍人精神の否定ともなり、
また武士道も歪曲された認識から
過去の遺物とされていったのではないか。

そして、
戦後日本は、
軍隊すら存在せず、軍人もいない社会となった。
そのうえ、
政治制度は、米国化し、
すべての政治家や官僚たる行政官も
有限責任という思考の中で存在していくことになる。
この有限責任とは、近代法における考えのひとつであり、
それを取り入れたことで、
明治以後の日本の弱点である
最終意思決定者という存在を曖昧にし、
すべての責任を負うというものを明確に置かなかった。
それは結果的に
有限責任の名のもとの責任者不在を容認することになる。
天皇以外の人々は、
その有限責任の中でことをおこなったとした。

ただし、
天皇は、
君臨すれども統治せず
という存在であるとして
天皇に責任が及ぶことを避けたともいえる。

このことが、
今日の日本に
責任者不在という社会構造を生みだしたといえ、
それは今日においてもなんら変わっていない。

そして、
このことは精神論というものを
非科学的非論理性の存在としたため、
より基本となる意思を見つけることができず、
単なる形式的表面的思考が口先だけで語られ、
なんら本質的実のない
空虚な架空ともいえる精神論だけが存在し、
日本人の日本人たるゆえんを希薄なものとしたといえる。

今日の日本人における歴史観というものは、
おそらく明治以後の近代史が
大きく影響しているのではないかと感じられる。

それ以前の歴史というものは、
物語り的にとらえるか、
学識として認識する程度だろう。

これは、
日本の歴史が3000年にも及ぶ長いもので、
そのすべてを
自らの日常と照らし合わせることが困難だからといえる。

明治以後の歴史観は、
今日の日常生活が社会制度、
そして社会規範に大いに活用され、
学識のようなものとは
異なる認識が存在するからではないか。

ただし、
もっとも複雑なものが幕末ではないか。
幕末は戦国とならぶ歴史、そして時代浪漫である。

しかし、
幕末は明治のはじまりであり、
密接な関係もあることで
現代社会においても
多少なり影響をおよぼしているといえる。

そこで、
いま述べた視点で
今日の日本人が感じる日本人像というものを
考えてみたい。

日本人は、諸外国に行き、すこしばかり生活をし、
現地の友ができると、
概ね同じ質問がその日本人を悩ますと聞く。
日本の歴史ってなんですか?
と尋ねられることや、
日本人は、どんな考え方を持っていますか?
と尋ねられることは、
ほとんどの日本人にとって悩みの種だろう。

それは、
歴史や日本人の本質というものを
日本人が見つめていないからであろう。

特に歴史にいたって近現代の歴史観は、
日本人特有のものとは言い難く、
それは同時に
日本人の本質にもかかわることであり、
それ自体を考えたことのない日本人は答えられない。

場合によっては、
日本人と外国人の間で
武士道の話に発展することもあるそうだが、
現代日本人に
武士道というものを明確に答えられる人物は少ない。

ここで武士道というものについて少し考えてみたい。

幕末は、尊皇攘夷という意識が高まり、
それまでの幕府の姿勢に反発する武士があらわれた。
そこで武士たちの中に
武士道というものを問い直す向きと
新しい社会構造を目指すという、
どこか武士道とは異なる意識が
混在したのではないかと考えられる。

例えば、
幕末の物語りの中で
新選組がもっとも取り上げられやすい題材である。
新選組は、
近藤をはじめ土方など根幹をなす主人公の中に
武士は少ない。
いわゆる豪農の出身者で、
剣術に長けたものたちが中核をなす。
だからというわけではないだろうが、
近藤や土方はなにかにつけ
士道を重んじるという意識が強く、
武士道こそが武士をあらわす顕著な存在だと
受けとめていた向きがある。

つまり
武士道とは、幕末になると
武士のみが道としたとは限らず、
より大衆化していったのではないかと見ることができる。

そこで、ひとつ問題がある。

現代、私たちが武士道として認識しているものは、
おそらく江戸時代に体系化された武士道であり、
その中核をなす思想は、儒学の中でも朱子学だといえる。

朱子学は、
忠孝という考え方を基礎とし、
主従の関係や義というものの意識、
そして武士たるものの死生観に触れる学問であったと
私は感じる。

それに対して、
武士という存在は、江戸時代以前も存在しており、
古くは万葉集に出てくる防人たちも
武士同様の存在だといえる。

武士が、歴史の表舞台に登場するのは、
平清盛が、それまでの藤原公家政治に対して
武家を中心とする政治を目指すころに
歴史上あらわれたといってもよい。

そののち、
源平合戦によって源氏が平家を滅ぼし、
鎌倉幕府を成立させたことで
武家政権は確実なものとなる。

しかし、
鎌倉時代に武士道というものが存在したかというと、
体系化されたものはなかったのではないかと私は思う。
おそらく、
武士たちの中にも
社会制度の基礎である儒学というものは、
ある程度浸透していたと受けとめるべきだろう。

そこに
日本古来の神道や大陸から渡ってきた仏教の考え方が
混在することで、
武士のみならず
大衆の意識もつくられたのではないかと感じる。

とりわけ武士にとって
神仏とは自らを守る存在でもあり、
武運長久を祈願する対象でもある。

そのようにみると、
武士は社会生活において儒学的意識を持ちながら
神仏を信じることで
自らの存在を確立していったのではないか。

つまりこの時点では、
武士道というようなものは明確な存在ではないと
みることができるだろう。

鎌倉以後、戦国までの武士たちは、
武士たる道というよりも、
それぞれの生き方としての道を模索したといえるだろう。

鎌倉武士とは、
どちらかといえばかなり暴力的で、
問題解決のために暴力を用いることもいとわず
という考えが強い。
つまり、
規範的であるというよりも感情的で、
江戸時代の武士道にみられるような意識は
あまり強くなかったといえるだろう。

ただし、
当時の武士は、情というものに厚く、
信頼関係というものを
義ではなく情に求めたといえるのではないか。
当然ながら情というものは、
こじれれば衝突となりかねず、
その点においてはゆるやかな規範しかなかった
と言ったほうがよいかもしれない。
このような考えは、
おそらく戦国時代まで続いたのではないか。

ただし、
忠義という考え方がなかったわけではない。
源氏の武士たちは、
ひとたびなにかがあれば御家人として
「いざ鎌倉」というような考えがなかったわけではない。
これは、忠義のみの主従関係ではなく、
仕事に見合った恩賞というものを
おおいに目当てにしたということもできる。

それに対して、
鎌倉時代が終わりを告げようとしたとき、
南北朝が存在し、
その際、南朝に対して楠木正成は恩賞目当てではなく、
帝への忠義として馳せ参じ奮戦したということもあり、
忠義という姿勢が
武士にまったく見られないわけではない。

このように見ると、
武士というものはいささか粗暴であり、
社会をまとめるというのは
いかがなものかというような思いにもなる。

しかし、
武士は、先にも述べたように、
領主と領民という関係においても
情による結びつきを持ち、
常に一族一門というような
絆のようなものを持っていたといえる。
そのような組織論が集合体として大きくなることで、
それなりの組織体をつくりだしたといえる。

それは、
江戸時代にみられる制度的組織論ではない、
人間性にもとづく人間関係であるがゆえ
強固なものであったと考えることができる。

それに
鎌倉以後、戦国時代までの武士たちは、
生きることをもっとも大切だと考えていたようだ。
死を恐れるものではないが、
生き抜くことこそが自らの道であり、
多くの人のためになると信じたのではないか。
それは、武士にとってもっとも顕著な表現である
切腹という行為にもあらわれているようだ。
江戸時代以前の武士たちの切腹は、
自らの身の証であり、
自裁という意識はあまりみられない。
それは、生きることを大切にしたがゆえ、
死をもって自らを表現するというのは、
もっとも重たい行為であり、
それ自体が生きることを重視したがゆえに
切腹というものを、
そのような意味ある行為とみなしたといえる。

ここで、
江戸時代の武士道というものに触れてみたい。

江戸時代は、
徳川家康が
新たな政治を目指し、つくった時代である。
これまでの畿内中心の政治から、
江戸という遠隔地で
新たなものを想像しようしたといえる。

徳川幕府は、
初代家康から5代綱吉にかけて
社会制度や社会規範というものを整備した。
とりわけ武士の横暴を否定し、
暴力でことに向きあうということを許さなかった。
これは、
戦のない太平の世をつくりたいという
織田、豊臣、徳川の悲願が実ったといえる。

このような時代に転換すると、
武士は、
軍事的存在から官僚的存在に移行せざるをえない。
つまり、
軍事よりも行政の方が重んじられたということになる。
それは同時に、
武士たちが
どのように生きるかということを考えるうえで、
ひとつの道を見出さなくてはならない
という発想にいたったのだろう。
その道が武士道と呼ばれたのだといえる。

武士道は、
道理を説き、武士たる道徳心を養い、
徳を積むことを目指す。
それが滅私奉公や
いざという時の覚悟というような
武士の本懐という意識につながったのかもしれない。
その根幹に据えられたものが、
朱子学であり、忠孝という思想であろう。
主従においては忠義を重んじ、
それを第一義としたともいえる。
これは、
社会の安定のために不可欠な要素と考えられたのだろう。

このような状況は、武士から戦を奪っただけではなく、
生きる意味というものについて
考えさせられるものが存在したといえるだろう。
戦があればいつ死ぬかわからず、
今日生きていることに感謝、
そんな日々を大切にしたといえるが、
武士が官僚となれば、
死ぬというのは現実味のない話となり、
天寿をまっとうするということこそがもっとも大切だと
考えを変えざるを得なかったといえるだろう。

ここで、先にも述べたが、
武士にとって切腹というものが
いかなる意味を持つか今一度考えたい。

江戸以前の武士は、
身の証を立てるために切腹をしたと考えられる。
しかし、
江戸時代の武士たちは、
切腹というものを刑罰の一種として捉えたといえる。
特に武士にとって切腹の状況の違いは
武士としての地位や名誉の違いで
細かいことまで気を配ったといえる。
座敷で腹を切るのと庭先で腹を切るのでは、
その位置づけが異なる。
ましていわんや、
切腹ではなく斬首というのは
武士にとって屈辱以外のなにものでもない。
これほど形式にこだわったというのは、
死の意味が生きることよりも重たかったからではないか。

葉隠の一節に
「武士道は死ぬことにみつけたり」というのも、
死というものが武士にとって重要な意味を持ち、
生きることよりも大切なものと考えられたといえる。

このように見ると、
鎌倉から戦国の武士と江戸の武士では
死生観がまったく異なるといえる。
その死生観が武士道というものをつくりだした
といっても過言ではないだろう。

このように見てくると
日本人の特質のひとつである
武士道というものをとっても説明することは難しい。
だとすれば、
今日の日本人が
日本人たるゆえんを外国の人々に伝えるというのは、
よほど日ごろから
日本人というものを自ら見つめなければ
答えは出ないだろう。

昨今の日本人は、
己を知らずして他者を語るというような、
武士道とは真逆な思考に陥っているようだ。
このような状況下で
日本人を取り戻すというのは容易ならざることで、
困難なことといえる。

しかし、
いかに困難であろうと
私たちは日本人であることには変わりなく、
それを正面から受け止めなければ、
自らを失うことになると気づかなくてはならない。

あまりにも長くなったゆえ、
明治以後の意識については、
また後日記述したいと考える。

長文お読みいただきありがたく存じます。

 

認識の甘さというものが日本人の中に広がっている。

これは現政権になってきわめて顕著になった。

なんといっても国際情勢の見極めに見て取れる。

すくなくとも
トランプ独裁の方向性を全面的支持するというのは
盲目的追従であり、もはや属国たるあらわれとなった。

国際法は気にしないトランプの
極めて希薄な倫理観を正しいものとするというような
まさしく狂った大統領を支持するというのは
日米同盟があるとはいえ、日本は不可思議な国だと
国際社会に見られても仕方がない。

実際に米国内においても物価高はおさまらず、
国民の中に不満と不安、そして閉塞感が高まっている。
その物価高の要因に
トランプの短慮が起こしたイランとの戦争があり、
ガソリン価格は米国内の物価を押し上げた。

それよりも
本当のところを言えば
おそらくトランプが世界中にかけた
関税の影響が顕著にあらわれだしたと言ったほうがよい。
関税というものは、
国家に利益をもたらすように見えるが、
国民には逆に負担を強いることになるのは
きわめて必然であり、
その結果があらわれだしたといえる。

トランプは
なにをとってもよいところのない
史上最悪の大統領であるにもかかわらず、
高市早苗は盲目的ではなく隷属している。
まさしく見極めの悪さではないか。

国内政治においても
米国同様に日本も物価高にあえいでいる。
しかし、高市早苗はいまだ消費減税は悲願と言い、
来年度に実施を目指しているが、
このような一時的カンフル剤が
物価を抑えるというのはまやかしであり、
悪影響の方が大きく、
日本経済に悪しき禍根を残すに違いない。

なんといっても、
金利をあげればインフレは抑制できるはずだが、
現状米国が日本同様に金利を上げるのであれば
日銀の政策はなんら意味のないものになる。

現に、
円はドルに対して一段と円安を高め、
もはや161円を超え、2円台に入ろうとしている。
これでは消費税を下げたとしても
円安の影響を受けた物価上昇分で
減税分は吹き飛んでしまう。

片山さつきは介入をちらつかすが、
これまで二度の介入で失敗しており、
その効果は市場に影響をもたらさない。
片山はこれまで
日本経済はよい方向に進みつつあるというが、
現状は悪化の一途をたどっていると見たほうがよい。
つまりこれも財政当局の見極めの悪さではないか。

そんな折に高市早苗は、
国の根幹を揺るがしかねない
皇室典範改正を今国会でやると息巻いている。
これまでの歴史を見ても、
皇室と皇統に手を出した政権は、
平安時代以後すべて滅びている。
とりわけ今回の皇室典範改正は、
歴史的に見てももっとも問題のある考え方で
無責任極まりない国会議員の賛否はなんらの意味もなく、
絶対にこの報いは
腐った政治家どもが負うことになるだろう。
これは見極めの悪さで済む話ではないが、
まさしく認識の甘さがつくりだす
虚栄心以外のなにものでもない。

それにもまして、
国民生活が危機的状況になりかねない今日、
国旗損壊罪や衆院議員定数削減という
意味不明なものを決議しようとしている。
国旗損壊は単なる感情論で、こんな無駄な法律はない。
それよりも、議員定数削減は、民主主義の後退であり、
まさしく大政翼賛政治をおこなわんとする
極めて危険な法律である。
自民党のねじが2、3本抜けた議員たちには、
自己の議席維持という自己保身が優先され、
議会制民主主義を否定しても構わない
という無能者であり、
無責任極まりないと言わざるをえない。
これは、見極めどころか
私利私欲にまみれたエゴイズム以外のなにものでもない。

なんといってももっとも見極めの悪いのは、
主権者たる国民である。
口では物価高、物価高と言いながら、
ノーテンキに依存を決め込み、
誰かがなんとかしてくれるだろうと、
もっとも危険な見極めをよしとしてきた。
それが結果として政治不信と言いながらも、
無関心を諦めや政治家の堕落のみに理由を押しつけ、
主権者たる責任を放棄するという、
自由と民主主義、法の支配に対する
国民全体の見極めの悪さが、
この現状をつくりだしたとまったく理解していない。

民主主義とは、
主体的自己を持つ主権者が責任ある行動をとってこそ
成り立つもので、
それを本来
もっとも大切な国民の権利と受けとめなくてはならない。

他の問題では権利、権利と叫ぶが、
これほど重要な権利については
日本国民の多くは放棄し、
すべてを他人の責任としている。
これでは見極めなどすらない
自己破壊的無能者と言われても仕方がないだろう。

 

人は自分と異なるものを感じると、
まずは興味を持つが、それは長続きせず、
多くの場合は、あまり肯定的には受けとめることはない。
これは、おそらく人の性のようなものかもしれない。

なんらかの異なるという意識が生まれると、
おおむね違和感を抱くことになり、
それは偏見につながる。

その偏見は、
場合によっては嫌悪となり、
それが進むと敵視となる。
そして排除につながり、
結果的に、
いわゆる差別というものにつながることになる。

その意識を社会の中で多くの人が共通認識とすれば、
少数の存在は、常にその社会から排除されるという
極めて厳しい状況に追いやられる。

ただし、
その小数が数の論理ではなく力の論理をとった場合、
対立となり、その力が膨らめば衝突に発展する。

しかし、大半の場合、
力の論理に移行することはほとんどみられず、
ひとたび異なる存在とレッテルを貼られれば、
社会的には排除されるというのが、
おおむねこれまでの常となってきた。

そこで人は
なにをもって自分とは異なるとみなすのだろうか。

初歩的には、視覚による判断だろう。
しかし、
視覚による判断は、
あくまでも不明確で断定に至るまでに時間を要する。

次に考えられるのは、
音声、つまり言葉による情報である。
これは急速に広がる場合も多く、
同調意識をつくるのに時間を要しない。
現代では、その現象を
ネットによる広がりと受けとめることができる。

そのうえ、
専門知識を持つ者や指導的立場の者が同様の意識を持ち、
それを伝播させれば決定的な排除の理論につながる。

これは、誰もが持ちえる常なる思考であり、
行動様式だと受けとめたほうがいい。

このようなことを言うと、
「私は違う。そんなことはしない。」
という人物もいるだろうが、
それはあくまでも自分の意識の中での過程の判断で、
現実となれば、
必ずしもその自らの意識とは
同様のものとはなりえないだろう。

他人ごとであれば、自らを抑制できたとしても、
自己に降りかかる問題となれば、
その抑制は保証の限りではない。

この状況は、
おそらく日本人には多い現象だと感じる。

日本人にとっての人権意識とは、
あくまでも観念的意識と感情論でつくりだされている。

そのうえ、
実体験がなく、あくまでも仮想による推論であり、
そうであれば自らをよく見せたいという意識が働き、
いわゆるきれいごとで片づけたがる。

まずもって、
人の尊厳というものを
本気で考える人物がこの日本にどれほどいるだろうか。

このことは、次の言葉に象徴される。
「差別はなくさなくてはならない」
という言葉である。

現実的に考えて、
差別意識を持たぬ人間などほぼ皆無である。

差別というものは、
だれしも少なからず意識し、
場合によっては
自らが差別的に扱われたと感じることは多いだろう。

つまり、
差別は日常生活において
いかなる場面でも大小は問わず存在し、
自らの潜在意識には必ずあるといっても過言ではない。

ただし、
人というものは本来自在で寛容なものである。
今風に言えば、
多様なる意識を持ちえる
と言ったほうがよいかもしれない。
この人の本質が生かされるのであれば、
人は差別的意識を持ちえたとしても
幅広い思考と一定程度の感情抑制、
そのうえで対象者を見つめ、対話をこころみれば、
その差別意識というものは
一定程度抑制されることもあるだろう。

なんといっても、
日本人には、これまで何度も述べたが、
本質的要素として
おもんばかるという意識があるのだから、
それを発揮できれば差別をなくすことはできなくても
差別意識を弱めることは十分にできるはずである。
これがひとりひとりに芽生え、
ある程度の結びつきをつくれば、
よい意味での同調圧力ともなりえるだろう。
特に現代日本人は、
自己決定が希薄であり、
他者に依存する傾向が多いことを考えれば、
容易に善循環的同化というものは生まれるはずである。

差別はなくすのではなく、
やわらげ、
そして時間をかけて自らの意識変革を起こすことが
もっとも今望まれる社会をつくるのではないか。

最後になるが、
日本人にはなかなか自由という言葉が定着しない。
これは、人権意識が薄いのと大いに関係する。
だからといって
言葉だけの自由を高らかに叫んだとしても
なんの意味もないだろう。

それとは異なるが、
今日の日本に奇妙な差別や排除が存在するのは
声の大きい者(権力者等々)の言葉に
依存する結果である。
それに加え、
よく言われる同調圧力がそれを増長させる。
現実逃避的な外国人問題の解決策も
そのひとつだといってよい。

よくよく現状を見つめなければ
私たち日本人は窮地に立たされることになるだろう。