本日、立春、二十四節気では春のはじまりとなる。
されど、春はいずこぞ。
現実の天候は、いまだ冬となる。
これも世の移ろいとあきらめるべきである。
冬というのであれば、
この国は玄冬といってもよいかもしれない。

もはや、長い歴史は、なんの意味があるというのか。
これほどに異国・偉人の文化を模倣し、
もはやそれをもって日本の文化のごとく語るは、
玄冬といってもはばかるものではない。

かくいう私めも、
白秋を過ぎつつあり
玄冬に入るかと見まごうばかりである。
長年、乞い願う玄冬に
わずかばかり届かずというのもむなしきことかな。

世事のわずらわしさを忘れ、
己に忠実たらんと欲す。
人はなによりも
自由であることが夢であると思いし今日この頃。

 

現政権が、今回のような解散をしたことに
国民の大半はなぜ疑問を感じないのか。

世論調査の結果を聞くと、
現政権が圧勝するかのような結果が出ている。
これが、事実だとすれば、
今回の選挙は自民党の思惑通りだということになる。
当然ながら、
民主主義というものは、
多数をとった方が勝ちであり、
いかなる政治家も勝つことを目指し、
それを正義とするのはもっとも当然のことである。

しかし、
今回の解散が政権の思惑通りになるということは、
完全に国民が政権に飲まれているということになる。

果たしてこれが
この国際情勢の荒波を乗り切れる
政治を生み出すといえるだろうか。

たしかに、
物価対策や経済というものは国民生活に直結するもので、
国民の関心が高いのは当然である。

されど、
減税ポピュリスムは
果たしてこの国によい結果をもたらすだろうか。

今日の日本は、
国際社会とほどよく連携をはかり今の地位を得た。

しかし、
現政権をはじめとし与野党ともに
内向きな姿勢ばかりで、
一国主義というよりも
近視眼的刹那主義のようで見るからに嘆かわしい。

目先のことばかりを気にしているうちに、
この国は病が浸潤していくだろう。

もはや日本は大国ではない。
極東の小国となりつつある。
成長や発展というものは、
天井知らずではなく、
上り詰めた者は必ず下降する。
これは歴史をみてもあきらかである。

それは米国とて同じことであり、
現米国政権は無軌道、無自覚な主張を続け、
過去の自らの祖先のことを顧みなければ
同じ轍を踏むことになるだろう。

欧州は長きにわたり覇権を争い、
常に収奪することをくり返してきた。
とりわけ、
スラブ人以外の欧州はその欧州の中で争い、
その果てに
スラブ人を絶対的な敵として最終戦争をおこない、
結果的に疲弊した。

米国は本年でようやく建国250年を迎える。
米国のルーツは、スラブ人を含めた欧州が中心である。
つまり、同族である同血であることはいうまでもない。
ようするに米国は、近々より疲弊していくだろう。
現政権が横暴を続けるのであれば、
その時間はより短縮される。

中国も肥大化すれば、
これまでも自己崩壊を早め分裂を繰り返したのも
長い歴史をみれば合点がいく。

これが世界の潮流であり、大変革の兆しかもしれない。

そんな折に、日本もまた変革を余儀なくされつつある。
平安の時代から江戸時代まで
政体が混乱により弱体化していくと、
国の安寧というものは脆く崩れていった。
政権崩壊は、その最後に、
星がより輝きを強め、
そののち爆発して粉々になり、
塵となり果てるように崩壊してきた。

おそらく、
私ごときの予測は当たらないだろうが、
現政権が、
というよりも、
自民党が最後の肥大化をすることは、
この国を揺るがすことになるやもしれない。

ただし、
現状を鑑みれば、
野党もひとつとして政権を担うには力不足で、
とってかわることにはつながらないだろう。

日本人と日本という国にとっては、
昭和がはじまり101年目、
敗戦後81年目というのは、
大きな節目となるかもしれない。

おそらくこんな言葉に
誰一人として耳を傾けることはないだろう。
しかし、日本が危機的状況にあることは変わりがない。
先を見通すか、
目の前のことにしがみつくか否かは別として、
変革なくして存続なしである。

もう一つ、
まったく個人的な意見を最後につけ加えておく。

日本は、もとより他国とはまったく異なる。
それは、
国体という絶対的権威と政体という権力が
二重構造をなしていることである。
それは、
西洋近代政治哲学でいう単なる立憲君主制ではない。
これは、
天皇の存在と政体の分離であり、
政体が混乱した際、
国体によってこの国は守られてきた。
これは、
この日本の長い歴史をみてもあきらかな事実である。
このことを嚙み締めていただきたい。

折しも本日は節分。
まさしく、節目であり、「鬼は外、福は内」
佳き春が到来することを切に祈る。

歴史的にポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭した時、
果たして世界はよい方向へ進んだだろうか。

それにもまして、
ナショナリズム(民族主義)が声高に叫ばれて、
なにが起こったかを
振り返ってみればよくわかるはずである。

とりわけ民族という意味をはき違えている向きがある。

私の盟友ともいう知人がこんなことを言った。
民族は人間がつくりだした現象のようなものだ
というような意味であった。
私は、その話を耳にしたときはさほど気にもしなかった。
しかし、こんにちを見るにつけ、
この意味がどういう意味かわかるような気がする。
民族とは、人為的枠組みによってつくられた存在である。
本来、部族や種族というようなものがあったが、
この民族とは
それとは異なるかなり意図的につくられたものである。
とりわけ、
近代という時代を西洋人が征服するために生み出した
共同幻想にすぎない。

すくなくとも私たちは
日本人であったとしても日本民族という属性は必要ない。
大和民族というのもいかがなものか。

このようにみても、
東洋には民族意識というものは普遍的価値とはみなされていない。
そんな民族という言葉が、
今日世界中で跋扈するというのは、
なにか奇妙なめぐりあわせのような気がする。
この民族主義は、
左右両派ともに身勝手な議論をつくりだし、
強き民族、多き民族を中心とし、
それ以外を従属させようと企むものである。

現に、ロシアのレーニンは、
ボルシェビキによる革命を成功させる際、
スラブ民族、
とりわけ大多数であるロシア民族を強く意識させた。
かくいうレーニン自身はタタール人であって、
ロシア人ではない。
それに続くスターリンもまたジョージア人で
これまたロシア人ではない。
しかしこの二人は民族意識を高め、
社会主義というポピュリズムを強固なものにした。

また、
ドイツでは、皇帝がその座を明け渡し、
理想の共和国を設立したものの、
ロシア同様に赤い風が吹き出す。
第一次世界大戦後のそんなドイツに高まった意識は、
まさしく民族意識である。
ドイツ人、つまり
ゲルマン人の民族意識を声高に叫ぶナチスの台頭を
よしとした。
ヒトラーは、ドイツ人ではなくオーストリア人である。
しかし、
ヒトラーは、
優性種であるゲルマン民族が欧州を支配することが、
この世界に寄与するものだと言ってはばからず、
ドイツ国民もまたそれに熱狂した。

この民族主義的国家が、
どのような末路をたどったか
歴史をみればあきらかである。

あの世界初の社会主義国家は、
崩壊後、一瞬民主化したかのように見えたが、
それはつかぬ間の出来事であり、
結果は、
またもやロシア民族主義の
権威主義的国家主義国家に変貌しただけである。

現在では、
民主主義の旗頭という名前を掲げた米国ですら、
大統領の暴走を止められず、
もはや権威主義に酔った大統領が、
米国特有のナショナリズムをテコに
傲慢な独善性をいかんなく発揮しつつある。

これらすべては、
さもすれば全体主義ともなりかねず、
世界は、
きわめて危険な状況に陥ることが容易に想像できる。

日本が、そんなことにはならないと断言できるだろうか。
現状の政治を見る限り、
日本もまたポピュリズムにかりたてている。

そこに右派政党は、
民族意識を高めようとしつつある。

この度の選挙を見ても、
与野党すべての政党がポピュリズム一色で
左右の違いなど名目にすぎない。

そのうえ国民も、
聞こえのよい言葉や
みずからの手近な利得ばかりを望み、
政治というものを
バーゲンセールかのように貪ろうとしている。

このような思考は、決して良い方向を見出さない。

そして
昔の名声にこだわり、とりつかれるがあまり、
大国に夢を馳せ、それをよしとしている。
これは、
日清・日露の戦争に勝ち、
第一次世界大戦を乗り切ったことで
日本はアジアの盟主となったと誤認し、
大東亜戦争に邁進したときと同じ風潮である。

結果がどのようなことを招いたかは、
日本人であれば、知らない者はいないだろう。

あの時も、政治はほとんど機能していない。

当時のポピュリズムは戦争一色で、
なにごとにおいても
拡大・拡張を国民は熱烈に支持した。

このようにみれば、
大政翼賛政治は
まさしく国家主義的全体主義であり、
これば単に
政治家や軍部、
そしてメディアが生みだしたものとばかりは言えず、
国民が生みだした集団狂気の結果だと言ってもよい。

そんなことを今日の日本に再度見ているようで、
なんとも息苦しい。

 

世界はおおむね右傾化している。

民主主義とおぼしき国でも右傾化は顕著である

それにもまして、
社会主義とおぼしき国々でも右傾化は進行している。
社会主義における右傾化は
社会主義に対して保守的であるという意味であり、
つまり政治哲学的に保守主義を語るのではなく、
保守的態度を現状維持的に実行しようとする姿勢を
右傾化と言っているに過ぎない。

また、
宗教においても
原理主義や至上主義というものが台頭することは、
まさしく右傾化そのもので、
その宗教が政治に影響を与えるというのも
右傾化と呼ぶべきだ。

このような意味で世界は右傾化している。

それに加えて、民族主義が台頭することは、
もっとも危険な状況である。

この民族主義に
ポピュリズム(大衆迎合主義)が加われば、
もはや政治的危機の限界点に近づいたと言ってよい。

ある政治学者がこんな話をした。
「民主主主義において
ポピュリズムは決して悪いわけではない。」
というものだ。

たしかに平時で理性と知性が存在するのであれば、
この発言は正しいといえる。
もとより民主主義自体がポピュリズムであり、
民意というものを主体とする政治は
常にポピュリズムは必然だといえる。

されど、
今日の国際情勢を鑑みるに、
もはや平時と呼ぶには問題があるというべきだ。

まずもって
現状の政治において理性や知性は皆無であり、
あるのは虚構と虚栄という狂気にも似た観念論ばかりで、
それを示すかのように
強い言葉のスローガンばかりが目立ち、
その言葉には真意がない。
このような状態でポピュリズムが台頭するのは、
これまでの近代の歴史を見ても
危険であることはいうまでもない。

なんといっても
民族主義や宗教主体論が独り歩きすれば
国民はもとより国家ですら盲目にならざるをえない。

だからこそ
偏った保守的思考のポピュリズムは危険である。

大衆迎合と言っているうちはよいが、
このまま政治がより右傾化し、
ポピュリズムをよしとすれば、
必ずや民族や宗教の絶対を唱え、
その言葉を観念でスローガンに置き換えれば
いずれ醜悪な権力者があらわれ、
気づかぬうちに大衆迎合は大衆扇動と移行するだろう。

このような状況は
歴史的な偉人と呼ばれる人々でも見抜くことはできず、
さもすればそれに加担したという歴史は少なくない。

民主主義をよしとするのであれば、
心地よい言葉には必ず裏があると考えるべきだ。

そして何よりも
平等ではなく自由であることを
よしとしなければならない。

くわえて、
政治的には、
自己というものは主体性を保ち、
決して依存しないことを肝に銘ずべきである。

そうでなければ平和は守れず、
そののちに来る世界は
一部の権力に対する従属、
もしくは隷属の世界である。

 

真理というものを求めるのは容易ではない。
現代において宗教ですら
真理というものを見つめているか否か疑問である。
せめて真実を知ろうというような心でもあればよいが。
それももはや安っぽい言葉のようなものになった。

それもそのはずである。

事実ですら各々が自己の都合に合わせ歪め、
それをあたかも事実だと言ってはばからず、
また、それをなんの躊躇もなく信じる者も少なくない。

現実という言葉はもはや無意味である。
今日言われる現実とは
あくまでも仮想という想定域に存在するようなもので、
現実すらも身勝手にゆがめられている。

理想は、安っぽい意味しか持たず、
簡単に
仮想域においては手にすることができるものとなった。

空想や幻想というものも、
言葉はあれどもその本質は、
いまとなって意味あるものでなく、
ただ言葉として残るのみである。

不可解で不愉快な世界だ。