昨今語られる言葉の意味が
不可思議さを滲ませている。

伝統という言葉が
何とも誤認されているようで、
異なる意味に使われているように思える。

昨今、伝統という言葉は、
現在起こりえる現象において
時空を遡り同様の現象から導き出される連鎖のみを
言っているように思える。

しかし、
伝統というものは、
事物を表現するものではなく
人の営みにおいて原点となるべき思考の連鎖が伝統であり、
それは時の流れが長ければ長いほど
原点を守りながら変容するもので
その原点に基づいたものこそが伝統であり、
事物などという現象のみに伝統を見出すことは
如何なものかと言える。


また、
秩序などという言葉が頻繁に用いられている。

では秩序とは何であろうか。

秩序などという言葉は、
非常に身勝手なもので、
時の体制によって秩序はつくりだされるもので、
常に
権力が身勝手につくりだす正義である
と見るべきである。

正義などという言葉は
実のある存在と言えるだろうか。

正義は、
個人個人に存在しており、
相対する正義の存在があるとすれば、
もはや己にとって正しいものであるという、
まさしく身勝手な存在であると言える。

その都合の良い正義を盾にし、
社会をある権力が抑え込もうとして
秩序などという都合の良い言葉を吐き出す。

昨今では、
その権力にしがみつく、
もしくは溺れる者までもが
秩序を盾にし、己の都合を主張する。

いわゆるその者らにとって都合の悪いものは
秩序を乱す存在、
もしくは反社会的な存在と断じ
糾弾することこそ正義であるかのように語ることは
非常に危険極まりないことであると言える。

その上、
祖国などという言葉で自己を覆い隠し、
祖国という言葉を属性の主体とし、
掴みどころのない曖昧模糊とした存在に
依存するかのような振る舞いは
誤った道を進みかねない。

これらの言葉に共通するものは、
表面的かつ現象をもって表現することや
実態があるかのように見せかけることは
誤った方向性に陥りかねず、
また盲目的に邁進するのであれば、
もはや本義なき道をたどるかのような存在であり、
このような状況が幾度も積み重ねられ、
それらをもって伝統などというのであれば、
もはや実存などという言葉は無意味であり、
何事においても
必然などということが考えられぬ夢現の世界
であると言わざるを得ない。
そのような言葉を頻繁に用いる者らは、
単に己の世界にのめり込んだ妖のようなもので
実体なき存在と見紛うばかりである。