長年通り続けていた博多駅前の道に
最近見つけた店がある。

今日、たまたま昼時ということもあり
知人と昼食をとろうということになり、
その最近見つけた店が最短距離であったこともあって
行ってみることにした。

その店はビルの地下の
所謂昔ながらの喫茶店
とでも呼ぶべきかのような店であった。

店内も特別に狭いわけでもなく、
広いわけでもないという、
少し昔懐かしいような規模の店で、
オフィス街にある喫茶店というところである。

今思えば、
昔は必然であった水が運ばれてくるという光景に
なんとも懐かしい思いがした。

考えてみれば、
昨今では、カフェなどと呼ばれる店が増え、
水のサービスなどはほとんどなく、
セルフで紙コップを持って行く程度で、
なんとも味気ない。

今日はあまり時間もなくランチだけをいただいた。

ランチもこれまた懐かしく、
いかにも喫茶店のランチというべきもので、
私は久々にハンバーグをいただき、
知人はカツカレーを注文していた。

もう一人一緒にいた知人曰く、
まさに喫茶店のランチという風情で、
なんとも何をとっても懐かしいばかりである。

またお店の方もそれなりの年齢を重ねた
いわばマダムとでも呼べばよいかと思うような、
これもまたオフィス街にありがちの喫茶店
のようにも思えた。

何よりも驚いたのは、
この店は、喫茶店という名にふさわしい店で、
このご時世においても喫煙が可能だということである。

私自身は相当昔にタバコをやめており、
特段吸うこともないので
それほど感動する必要はないように思われるだろうが、
私の周りには今なお喫煙者が数多く存在しており、
それらの人々はこのような店に行きたいと思っても
なかなか行き当らないとのことである。

確かに喫煙は良いものではないと
医療関係者は口々にそれを言い、
確かに一定程度あたらずも遠からず
というところであろう。

しかし、喫煙は個人の嗜好であり、
このような状況は古くからの風習のようなもので、
現在においてもタバコが禁止されているわけではなく、
現実にたばこ税という重税を課されながらも
細々と静かに吸い続けている人々が存在することは事実であり、
このような喫茶店と呼ばれるような店の存在は、
これからも必然として存在してもらいたいものだと
思うばかりである。

異常なまでの嫌煙権などという言葉は、
果たして人間のあり方として良いといえるのだろうか。

なんでも権利のごとく叫び
自己を正当化することが
本当の良い社会の在り方だと言えるのだろうか。

日本人の本来の姿を言えば、
このような嗜好品であるタバコを吸うことに対して
互いが慮る心を持ち、互いの尊重の中で吸うことも、
また遠慮することも
互いの節度と配慮において
受け止められる社会であれば良いなどとも思う。

だからこそ喫煙可能な店も
必然として不可欠である
と言えるのではないだろうか。

当然、全面禁煙の店も存在することを
否定はするつもりはなく、
それはそれで時流だと受け止める。

ただ、この店のようにある意味では
ノスタルジックで懐かしい気持ちにさせる
喫煙可能な店があることも、
言い換えれば、
日本の良き時代の風情ではないかと
わがままに思った次第である。