新年早々、
大地震と津波、そして大事故と
非常に残念なことが続き、
多くの人の命が奪われた。

このような日本は、平和だと言えるのだろうか。

私の答えは平和であると考える。

人命は貴く、

1人たりとも命を失うことを良いとは思わない。

しかし、これはあくまでも偶然の出来事である。

地震というものはいまだ予知は難しく、
人の力ではいかんせんどうしようもない。

また、羽田空港で起きた事故は、
未だ解明がされず、明確な答えは出ていない。

メディアでは、ヒューマンエラーという観点で
問題の追及を行う向きがある。
しかし、このような姿勢で、
本当の意味での問題解決となるであろうか。

私の耳には、
単なる犯人探しのように聞こえてならない。

この国は、いつの間にか
モラルというものに完全に飲み込まれてしまっている。
このモラルを現代日本人風に言い換えるとすれば、
正義とでも言うべきか
非常に納得のいかぬ状況が繰り返されている。

事故原因の究明というものは、
新たな事故を引き起こさぬためには重要であり、
その観点においては、
私も事故原因の追究に対して否定するものではない。

ただし、
どこかメディアというものは
大衆を意識しすぎているのか
過剰反応のようにも感じる。

これが大衆にも影響を及ぼし、
さもすれば
不安感や恐怖心というものを煽るかのようにも見える。

羽田の事故を受けて、飛行機に乗ることが怖い。

また羽田空港は危険だなどと答える大衆は、
メディアの上では多いようにも見える。

果たしてこれは事実だろうか。

私は、多い時には、1年間に140回ほどの搭乗をして
1度たりとも事故らしい事故には遭遇したことがない。

このようなことを考えても
航空機というものは、それほど危険な存在ではない。

以前、
米軍のオスプレイが墜落した時も、
オスプレイはやはり危険な航空機である
と言わんばかりにレッテル貼りがなされた。

この状況を受けて
メディアは盛んに大衆の不安感を煽り、
結果的に、
佐賀空港の自衛隊所有オスプレイの配備に
疑問を投げかけるように語り続けた。

また、
メディアに登場する一般市民のインタビューを聞いても、
この度の羽田事故、オスプレイの事故共々に
市民の声は、不安だというものや怖い
という声ばかりが流れてきた。

これを事実受け止めるべきか。
もしもこのような航空機事故が、本当に頻発しており、
危険な事実が証明されているのであれば、
私は、何も言うことはない。

しかしながら、
日本社会の実情をみれば、
航空機事故が怖いというのであれば、
日本人はみな外出を控えるとともに、
車には乗るべきではない。

交通事故というものは、確かに以前よりは減ったものの、
未だ身近に起こる最も危険な事故と言える。

これは、
事故件数の発表をみてもしかりであり、
テレビや新聞の報道における件数をみても明らかである。

しかし、
ほとんどの日本人は、外出することを危険だとは感じず、
また、
不安感や恐怖心などを抱いているとは思えぬのが
現実である。

このようにみても、
人というものの感覚はあまりあてにならぬもので、
そこにモラルという落とし穴が存在し、
歪んだ正義感が前面に出れば、
ことの顛末を誤った認識が覆うという
非常に危険な現実が付きまとっているように

思えてならない。

そのことは、
平和というものの意識にも言えることで、
世界中の紛争が起こっていることを
目にし、耳にした日本人は、
あたかもこの日本も平和ではないのではないか
という疑問を持つ。

また、
一部の保守勢力が危機感をあおり、
平和というものを誤った認識で危険視し、
歪んだ思考を煽ることにも危惧の念を禁じ得ない。

また、
その逆の平和というものを何よりも大切だと言い、
真の平和が何であるかなど考えず、
紛争どころかすべての暴力を否定するなども、
まさしく非現実的であり、
理想論の夢物語であると言える。

私の個人的な意見としては、
この地球に人類が存在する限り、
平和などという言葉は現実には存在せず、
本当には如何に均衡を保つ最小限の衝突でおさめるか
ということに注力することこそが
人間のできる現実であるというべきではないか。

人というものを過信しすぎ、
理想論というよりも夢想に耽ることは、
人が愚かなものという所以ではないだろうか。