現代日本は、正義に満ち溢れている。
何事においても
正義というものが貴ばれていると見るべきである。

されど、正義とは何であろうか。

また現実に存在すると言えるのか。

愚性には疑問ばかりが残る。

まさに
先の感染症の問題が日本社会を揺るがした際、
自粛警察やマスク警察などと呼ばれる存在があったことが、
まさしく正義の認識であったと見るべきである。

この頃では、
YouTubeなどといういかがわしい存在の中で、
私的捜査や私的逮捕という
法治国家としてあるまじきことが公然となされており、
そのいかがわしい画像を見る者が多いことは
呆れるばかりである。
これこそが、このユーチューバーなる存在も、
それを見て喜ぶ存在も、
まさに正義というものに溺れ、
侵された存在であると見るべきである。

一般の社会において
何かと正義面する者が多いことには、
この社会に正義が存在しない証ではないかと
見ざるを得ない。

このことはメディアにおいても同様であり、
昨今では、
ジャニーズの問題や宝塚の問題なども
それに属するものであると見ることができる。

確かにセクハラやパワハラは良いものとは言えず、
あってはならぬことであるが、
これを単純な正義感で一方的に民衆裁判のように取り扱い、
断罪することは如何なものかと言わざるを得ない。

現状を見る限り、
これらの事柄は現状において刑法に抵触するものとは言えず、
民事に属するもので、
あくまでもそれは善悪というよりも、
賠償という形で決着しようとしているもので、
あまり善意の第三者であったとしても介入すべきではない
ということを本来理解されるべきものと考える。

一方的な情報により、
一方的もしくは恣意的な判断によって
他者を断罪することは、
場合によっては誤りを正しいものとすることになり、
そのうえネットを含めた第三者への通報行為は、
まるで私刑と同様であり、
これを公然と正義と言い放つことは、
法治国家として如何なものであろうか。

このようなことは、
この現代社会において日々繰り返されており、
小さな事柄からこの正義感というものが振りかざされ、
場合によっては偏見や誹謗中傷となることは、
これまで見ても明らかである。

もう一つここで一例をあげるが、LGBTの問題が法律制定に至る過程で、社会問題として取り上げられている。
これは今なお対立構図を生み出す、場合によっては社会混乱の火種ともなりかねない。
この対立もまさしく正義と正義の対立と言える。

LGBT当事者やその支援者は、自己を少数者もしくは弱者と見做し、このような存在が人権的に保護されるべきと主張し、人権問題の観点から自己の主張は正当とし、それこそが正義であると言っているように聞こえてならない。

これに対し一部の保守派が、伝統や文化、歴史観などにおいて、このLGBTの主張は日本にはそぐわぬもの、それに伴い現状の社会秩序の奇妙な変化を及ぼす、もしくは混乱を招くとして否定していることも、保守派としては正当であり正義であると述べていると見ることができる。

このように見ればわかりやすいと思うが、ここの二者はどちらも正義を振りかざしており、このことがまさしく正義と正義の対立という典型的存在であると言える。
ただし、この対立の根底にあるものは、常にイデオロギー的対立であり、これは正義と正義というよりも左右対立と見るべきで、場合によっては双方ともに本質を離れた対立と見るべきである。

ここで最も問題となるのは正義という言葉である。

正義という言葉の対義語は不正義ということになる。

ただし、
正義というものを捉える際に
何をもって正義の基準とするかは、判然とせず。

仮に
正義というものを求めるのであれば、
刑事裁判の場のみと見るべきである。

少なくともメディアやネットなどに真の正義を見出すことは困難であり、
正義というものが個人の価値観や観念によってつくり出されることは、
もはや法治などという言葉は存在しないと言えるのである。

また、
弁護士も必ずしも正義であるか否かは判然とせず、
場合によっては
不正義というよりも不義である
と見做さざるを得ないということもある。

警察においても、このことは同様であり、
また、
検察という司法の存在であったあとしても
必ずしも正義であると言えるか否かは
裁判所の決定に委ねられるもので、
その決定ですら三審制という制度が用いられ、
場合によっては
再審請求という制度をも用いられることがあり、
正義というものは慎重に扱われるものであることを示している。

このように見れば、
必ずしもこの社会に正義というものが存在するか否かは
疑問と言わざるを得ず、
単に個人の認識の判断において正義を位置付けることは
困難であると多くの人々は知るべきである。

仮に、
正義を政治のようなものが体制的に利用することがあれば、
これこそ最も危険な状況であり、
その正義に扇動された大衆が、正義を信じ邁進した場合、
反体制と呼ばれた存在は悪しき存在として処断される。
このことは、日本においても
戦前の憲兵や特高警察が用いた手法と同様である。

これよりもはるかに醜悪なものが、
ヒットラーによる国家扇動や
スターリンによる反体制抑圧など
まさしく正義の乱用と言わざるを得ない。

このような状況は、
ごくわずかな正義から始まり、
気づいた時には誰にも動かすことのできない
誤った正義の支配となりかねない。

このことに
理性と良識のある民は気づかねばならない。

特に、政治の世界においては、
正義を求めるのではなく義を重んじるべきで、
不義にならぬことを肝に銘ずるべきである。

また、
メディアやネットという存在は、
常に責任を重んじて言行を行うべきである。