選挙が終わり、なんともいえぬ思いが胸に去来する。

つくづく

日本人は、日本人の心というものを失った

という思いばかりがつのる。

 

ニュースを見れば、

不愉快な話ばかりでうんざりとしている。

 

そんなさなかに、

冬季五輪は、一服の清涼剤のような気がする。

とりわけ、冬季大会は

私自身が冬季競技の連盟役員をしていたこともあり、

目は見えぬものの、

活躍を聞くと喜ばしいことだと思える。

 

ひとつ面白いことに気づいた。

 

それは、昨今の選手たちがすこし前とは異なり、

なんともいえぬ心地よい言葉を語っていることだ。

 

それは多くの言葉でよく聞く言葉のように思える。

 

「自分との戦い」や「自分に克」というような言葉だ。

 

このような言葉こそ

日本人が長いあいだ培ってきた心得だと感じる。

まさしく武士道のような心構えである。

 

それは、

儒学や仏教思想にも関連するもので

日本人の心というものだけではなく、

東洋の心を体現しているように感じた。

 

それに、競技に際して未来を憂うることなく、

また過去の後悔にとらわれず、

いまこの時をすべて受け入れ、

自らがなすべきことだけに集中するという

「あるがまま今を生きる」

というような

道家的思考をもちいているというのにも驚かされる。

 

なによりも、

あの若き選手たちに至るまで

最高の演技をするということにおもんばかる

という心が具わっていることだ。

 

それは、

多くの観客に「感動してもらいたい」という言葉や、

自分の最高の演技を見てもらうことで

「多くの人に勇気を受け取ってもらいたい」

というような、

どこか他者へのおもんばかる気持ちがあることに

なお一層すばらしいことだと思うばかりである。

 

それにもまして、

あまり知られぬ競技であれば、

多くの人に知ってもらいたいという気持ちと、

これからの未来に

新しい選手が増え活躍してくれることを祈る

というような、

自らなだけではなく

先のある後進のことも考える発言には

感動するばかりである。

 

少し前であれば、

感情の爆発のような言葉が多かったが,

昨今の選手はより高みを見つめているようで、

あっぱれという言葉がもっとも適切のようにも思える。

 

政治の世界は西洋近代へいまだ邁進しているが、

スポーツの世界は、

一時のような精神訓や根性論は鳴りを潜め、

技術自体は

科学的仕組みにもとづく理論であったとしても、

心理や精神という面においては

日本人特有の文化的思考や

自己を見つめるという道の考えに基づくもので、

日本人というよりも

東洋の心というものが根底に存在するもので、

日本を含め東洋の未来は明るく、

希望に満ちたものだとありがたくうけたまわる。

 

ここで洋の東西を問わず、この言葉を贈りたい。

I Have a Dream、

私には夢がある。

 

政治と政治家に絶望したと昨日書いた。

しかし、
この絶望はなにがもたらしたのかということを
考えなくてはならない、

その答えは、
国民という参政権者がもたらした結果である。

つまり、
日本人に失望したと言ってもよい。

もはや日本人には、
主体性というものはみられず、
自主的という言葉は空虚なものとなった。

参政権は
自由と民主主義、法の支配において
もっとも大切な意味を持つ。

しかし、
この日本、そして日本人は、
そんな認識すら言葉面だけで、
つまらない観念のようなものになり果てた。

今日の日本に
左右というような政治哲学や
それに伴う理念なんてものは
ほぼ形式的なもので
本質を失っているといってもよい。

左右両派ともに原理原則を忘れ、
理念というよりも
なんとなくといったような観念で
政治が語られる。

だからというわけではないが、
すべての政治的主張は
意味不明にして
簡潔らしく見えるスローガンとなっている。

つまり、
中身はないということである。

常に「なんとなく」というような漠然とした意識が
何度も何度もくり返されることによって
まやかしの認識へ変えられる。

これでは
「中道」という言葉は
なんとも希薄でつかみどころのない言葉に
聞こえるのもしかたがない。

ようするに日本人は、
いつしか政治音痴になり、
やむなく政治エンターテインメント(娯楽)
として受け止めるほかなかった。

その結果、
今回の選挙の結果が生みだされたのだと
私は感じてならない。

大衆迎合は、
大衆扇動へとまもなく変わるだろう。

扇動された国民が、
その事実に気づく日が来るだろう。
そんな日を迎えた国民は、
おそらく
絶望に打ちひしがれ、悲嘆にくれるに違いない。
私は、そんな日本人に失望した。

 

 


参政権というものを得て40数年になる。
それと同等ともいえる時間の経過の中で
自民党というものを支持してきた。
短い時間ではあれ議員のお供もした。
当然、その議員も自民党の議員であり、
それをきっかけとして自民党員だったこともあった。
現在は党員ではない。
政治というものにかかわりをもって長い時を過ごした。

昨夜ほど選挙というものが恐ろしいと思ったことはない。
そして、
あれほど自民党が圧勝した選挙というものを
見たことはない。
本来であれば、
自民党圧勝と聞き喜ばしいと思うのだが、
昨夜ほど政治というものに絶望したことはない。
私は、
もはや自民党に希望というものを描くことができない。
選挙は勝てばよいというものではない。
民主主義において選挙はもっとも大切なものであり、
その選挙を
昨日ほどむなしいものだと感じた記憶は
一度たりともなく、
とりわけ支持政党が大勝して喜ばないというのは、
これからもないのかもしれない。

この度の選挙になんの意味があるのか
私なりに問いかけてみたが、
なにひとつよいものが浮かんでこない。

国内外を見ても
昨日の結果は決してよいことを招くとはいえず、
暗雲が迫りくるようなもので、
これからどんな嵐が迫ってくるのか
考えれば考えるほど恐ろしい。
はっきりした物言いをすれば、
どう考えても高市早苗という人物が、
あれほどの議員を掌握できるとは考えにくい。

民主主義というものは
数があればよいというようなものではない。
多数決という手法においては
数こそが力であるといえるが、
もはやあれほど圧倒的多数をえてしまえば、
議会はあって無きがごとくで、
かえって機能不全を起こしかねない。

人というものは、
どれほど立派だとしても必ず傲慢になり、
力を得れば得るほど独善性が増す。
仮に高市氏がそうならないように努めたとしても、
群がる者たちに常に冷静であるということは
不可能である。

これは目の見えぬ私が感じる彼女の話だ。
高市氏は、
昨夜あれほどの大勝を目の当たりにしたことで
自分自身が恐ろしくなったのではないかと感じた。
それは、表情というものはわからないが、
確実に総裁選の際や、
その後、総理になりさまざまな発言をした際に、
語調というものは生きていたが、
昨夜はそれとはかなり異なっているように
私には聞こえた。
あれほどの圧勝をしたにもかかわらず、
声には生気がなく、
力強さというものはまったく聞こえてこない。
これがどのような意味かは明白ではない。
しかし、
確実にこれまでとは異なる言霊があるように感じられた。

今日は、選挙明けで、
おそらく疲れというものがとれていないだろう。
しかし、
明日以降は、なにもかもが一気に動き出し、
年度末ということを鑑みれば
休んでいるという余裕などないだろう。

明日以降の高市氏に耳をすましたいと思う。
この大勝が自民党の命取りにならなければよいのだが。

あす、いよいよ投票日を迎える。

メディアは、日本の行く末を占う選挙と言っている。
果たしてそれは本当だろうか。

本当だとするならば、
現状の政治家や有権者はなにをしようとしているのか。

いまさらこの解散劇を大義なきものと糾弾する気もない。

しかし、確実の明日選挙結果が出る。
その結果次第では、
日本という国家がなにを目指すか決まるはずである。
おそらく決まるのだろう。

ただし、
この選挙はなにを争点としているのか。
少なくとも、
ひとつの党を除けば、みな減税といってはばからない。

また
国民も減税に気をとられているが、
それであればこの選挙は無意味なものである。

少なくとも
この解散の首謀者である高市早苗は、
この度の選挙を政権選択ではなく、
首班の選択選挙だと言っている。
おそらく、これは、
この度の選挙の争点だというのだろう。
「私、高市早苗か、それ以外の誰かかを
国民の皆様に決めていただきたい。」
と言っているようなものだ。

ただし、
この国は、議院内閣制であり、
首相公選制をとっていない。

私自身過去にある国会議員に
首相公選制を導入すればと尋ねた。
その答えはこのようなものだった。
「首相公選制?
それは共和制、大統領制のことですか?」
というような認識しかなかった。
だから、
この度の高市解散の本題は、
偽りに満ちたものを意味するのだと確信した。

本当に国民諸氏は
高市早苗にこの国を委ねてよいと思っているのか。
そして、
高市に委ねた際、
なにが起こるかをわかっているだろうか。

空気や風、潮流のようなもので政治が動くことは、
さもすれば無軌道で無責任な政治を生みかねない。

この度の選挙の本質が
国民生活や経済問題ではなく、
別の意図が隠されるというのであれば、
はたして国民諸氏は現政権を選ぶだろうか?

それは、
高市本人が
このような発言をしていることに注目すべきだ。

「国論を二分する大きなことを成し遂げたい。」

という言葉だ。

少なくともこの言葉は
減税や社会保証の問題を意味するものではない。

経済対策もまた必ずしも二分するような問題ではない。

では、
国論を二分するというのは、なにを意味するのか。

うがった見方とは十分承知している。

答えは、「憲法改正」。

これにちがいない。

私は右翼団体の一員である。
当然憲法改正は、私の悲願である。

しかし、
現状の政治において憲法改正をおこなうことには
断固反対である。

あの故安倍晋三氏ですら
思慮深く対処したのが憲法改正である。

そのように考えると、
現政権が軽々に憲法改正に着手することは
無軌道・無責任に改正を目指すことになりかねない。

憲法で問題になるのは、
9条であるが、
これは現自民党案を見ても小手先の言い訳改正で、
抜本的問題解決にはつながらない。

もっとも危惧するのは、
緊急事態条項の追加である。
この緊急事態条項は、
ワイマール共和国とワイマール憲法の崩壊の原因である。
つまり、
ヒトラーが、この緊急事態条項を使って、
ドイツという国家を掌握し手中に収めた。
さもすれば、
軍事行動を伴わない
戒厳令同様の事態を招きかねないのだ。

現在の日本という国家には皇軍も国軍も存在しない。

9条に自衛隊を明記したとしても、
あくまでも自衛隊である。

つまり、
自衛隊は、
警察の補完組織であるということにもなりかねない。

三島由紀夫先生は、
国体を守るものを軍隊と位置づけ、
政体を守るものを警察と呼んだ。

ようするに、
緊急事態を万が一にも政府が発動すれば、
政体を守る警察、
つまりは、
いまだ治安出動を目的とする
警察予備隊の発展型としての自衛隊は
軍隊ではなく武装警察として
この国の治安維持をおこなう
ということにもなりかねない。

さもすれば、
政府が一方的に憲法を止め、
国会を封殺すれば、
なにが起こるかはおわかりだろう。

その政権が、
現状のような政権であればなおさらのこと
この国は危機的状況になりかねない。


加えて、
現政権は
「スパイ防止法」と
「国家情報局」の存在を生みだそうとしている。

この法律とこの機関の存在は、
対外的意味だけではなく、
国内に対しても、
また国民に対してもかかわるものになることは
いうまでもない。

つまり、
自由と民主主義、法の支配が
崩壊しかねない可能性を秘めている。

なんといっても
憲法改正は国会の3分の2の賛成が必要である。
今回の選挙で、
自民、日本維新が3分の2の議席をとれば可能性は高い。

そのうえ、
参議院が過半数を割れたとしても、
国民民主、参政、保守等々の賛同を得たとすれば
なおさらに憲法改正は近くなりだろう。

しかし、
現状を鑑みるに、
与野党すべて含めて
責任ある行動ができるといえる人物が、
どれほどいるだろう。

今日の政治家が憲法改正を実行するということは、
無軌道、無責任な結果を生むのはいわば必然である。

このことは、
国民諸氏においても同様であり、
空気や風、潮流のようなもので、
なんらの本質も持たず投票すれば、
それはいずれ自らに返ってくる
ということを十分に承知していくべきだ。

それに加えて、
世界というものが
どこへ行こうとしているかも加味しなければ、
もっと大きな悲劇を生みかねないことも
視野に入れるべきだ。


おそらく、このような長文は誰も読むまい。
また、
これまでご縁をいただいた方に
造反する意見だということは十分に承知している。
それと、
このような主張をしたとしても、
私は右翼であり、
尊皇というものをすべてだと承知している。
ゆえに、
わが陣営の中でもけしからんという意見もあろう。
保守や右派と呼ばれる人々にも嫌悪を抱かれるだろう。
仮に、刃が私を貫いたとしても
この考えを変える気はない。

最後に、
この投稿に対して賛否は必然と考えますが、
ご意見たまわったとしても
お返しすることができないことは
ご理解いただきたく存じます。





あの傲慢で独善的なやつが、
この国の内政に口を挟むなど言語動産である。

トランプという男は
主権という概念を持ちあわせなにのだろう。

ましていわんや、
法というものですら
自らの道徳観が優先されると言ってはばからない。

もはや米国大統領は
自由と民主主義、法の支配
というものをまったく意に介していないといえる。

これほど醜くあさましい人間が、
かの米国大統領だというのにはあきれるばかりである。

トランプは、政治を私物化し、
経済すらも自らの利益のみではかるという、
とるに足らぬ人間である。

ようするに
あの男は商売、
そしてそのための取引だけがすべてで、
常に傲慢な自己陶酔ですべてを私物化し、
他者への思いなどまったくないと言ったほうがよい。

もはや、米国は信頼たりうる相手ではない。

少なくとも、
あの醜い男が大統領をしている限り
信用ならぬと言っても過言ではない。

なぜ日本人は、
トランプの言葉になにも感じないのだろうか。

いま日本は選挙の真っ最中である。

それにもかかわらず、
あの男は3月19日に
高市を総理大臣として国賓待遇で迎えると言いやがった。

まるで
日本を自分の意のままに扱える
と言っているも同様である。

それにもまして、
この発言は、
もしも日本が高市以外の選択をすれば
俺は黙ってないと言っているも同然である。

これをもって選挙に介入してないというのは、
あまりにも愚かなことである。

もしも、このトランプの発言を
自民党の諸君が追い風だと受けとめるのであれば、
それはもはや米国の犬となり下がったも同然で、
自民党が圧倒的な議席を得るということは、
自民党の諸君が
国民を含めて米国に魂を売るのとなんら変わらない。

これまで私は自民党を支持し、
党員であった時期も少なからずある。

しかし、
今の自民党に私は未来を託す気には毛頭なれない。

それよりも
日本の政治の貧困は
もはや手のつけられぬ状況なのかもしれない。

ここまでくると、
政治家がすべからく信用たりうる存在でない
と言わざるをえない。

しかし、
その政治家を温存してきたのは
私であり、国民諸氏であることは、
まぎれもない事実である。

この年になって、
こんなことを書くのも
いかがなものかとわかってはいるが、
もう黙って見ているわけにはいかない。

蛇足であるが、
親愛なるイラン人諸君、
トランプの言葉に騙されるな。
あの狂信者は諸君らの味方ではない。
脳みその髄にいたるまで
商売を求める単なる守銭奴である。
決して、
親愛なるイラン人諸君、
トランプを信用するな。

حرف‌های ترامپ را نخورید. آن متعصب طرف شما نیست. او فقط یک خسیس است که تا مغز استخوان دنبال معامله است. ایرانیان عزیز، هرگز به ترامپ اعتماد نکنید.