2013,2,17レポート「金沢大学ボランティアさぽーとステーション」 | 民間防災 「防人 司」のひとりごと・・・

民間防災 「防人 司」のひとりごと・・・

民間の「危機管理者」として行事の「保安計画」「地区防基準」策定のお手伝い、活動グッズの企画・販売を手がけています。
各地で「民間防災」を起動する「防人」を募りながら、趣味や特技・資格・職域での非常時活動体の構築にもお手をお貸ししています。

3.11の「今」を知っていますか?~あなたの一歩が生む明日(みらい)~
2013,02,17 しいのき迎賓館にて

 


今日伺って 結論が出ました

皆さんボランティアが主体なんだということを。
ボランティアをスタート地点としていらっしゃるんですね。


支援することを主軸とすると、幾度も書きましたが、イメージが外からの・・・となってしまうでしょう。


実際には現地人での支援の方が初期になります。このあたりを間違わないようにするべきですね。

 


今日、同じテーブルについた男性もいい感情を現していましたよ。
現地の今を知るためには?と。


彼にはJCNと日本財団ガクボを紹介させていただきました。

 



さて、今日も入口の受付にてご挨拶申し上げ、金沢大学の学生さんとの馴れ初めもお伝えした次第です。

 写真:カメラ目線を頂きましたので採用させていただきます。


古い話ですが、金沢大学の学生さんとは幾度もアポイントをいただき、「防災人」について語ったことがあります。
おそらくD-Bookのどこかのコーナーでも書き添えてあるかと記憶していますが。


その学生さんも今は県外で教員をなさっているそうで、茨城に事務局を設置する際でしたか、ご連絡したことを思い出しましたね。
阪神淡路の後は、当時、金沢大学の教授をなさっておられた「みやじま先生」とも、講演会でご一緒させていただいていますしね。
意外と縁があるのかな?!



東日本大震災発生当日、当時の民間防災ボランティア【東日本事務局】宛に、「人手が必要ならば、大学へアポをとり、指導してから送り込むといいですよ。」と指示を出しました。
学生さんはね、纏まってくれるから助かるんです。


反面、民間防災自体は公益性の高い活動体が多いため、一般ボラ扱いにはなりません
したがって、社協さんが立ち上げるVCには顔こそ出しますが、その大半は「勝手知ったる活動」となるのです。
しかも、表面化しませんし、TVには流れません。


その為か、いまだ「民間防災?こんな活動団体があるんですねー!」と言われます。仕方ありませんよね。


手前味噌ですが、ネット上では「民間防災」を展開している自治行政も多くなってきています。もちろん個人活動家も。
ぜひぜひ、自分なりの「民間防災」=防災人を展開なさってくださいな!

 



さー 若い方に混じって、あれ?
今気がついたのですが、今日の学生さんの大半は1988年前後に生まれた方ではないのかな?
先駆けとなったセキュリティチームSWATが1988年設置。それ以来、変革させながらこの子達が生きた分、行ってきたんだなーっ。と今、気がついた次第です。



この日、陸前高田の広田地区からみえられた「村上さんご夫婦」も、基調講演をなさいました。



講演を伺う前にこの二人が…

 「あたりまえ体操」じゃなくて「ラジオ体操」をして、カラダをほぐして眠気を吹っ飛ばせ!ってことです。

若い方でも「ラジオ体操」ってまだ知ってるんだね?!もうやってないのかと思ってました。



さて、広田地区には既に「自主防災組織」はあったそうです。
しかし、マニュアル的な動きはなく、女性は「食」(炊き出し)の準備を、男性は不明者検索へと消防団と共に行ったそうです。
男女の違いで知恵の出し方が違うのですね。


今に始まったわけではありません。阪神淡路大震災時も避難所の隔壁にいち早く気が付かれたのは「女性」でしたし、自宅に戻り、冷蔵庫の中味を箱に詰めて持ってこられたのも「女性」でした。


☆身近にあった「グラデーションゾーン」
見えましたよ。
同じ広田でも、津波浸水などの被害のある場所と、何ら影響のない建家のエリアと。
被害のない方々もまた被災者ではあるんですよね。
当然、一帯は電気も水道も止まっています。

地震の場合、表面化しない問題点でもあります。
阪神淡路の時でさえ、強震を受けた大阪市内ではその日、仕事のため出勤された方も多く見受けられ、能登半島地震では金沢市以南はその日の仕事をこなせられました。


この差が心につっかえる瞬間がやってくるでしょうね。
かといえ、経済は同じ行政区で回さなければ、行政破綻につながるでしょう。
これが発災した瞬間からの「支援格差」になるんです。


被災経験の無い方、当日に現地入りした事の無い方はきっと違和感を持つことでしょうが、発災当初必要なのは、専門的知識を有する部門です。
もちろんその中にはVコーディネーターや我々コンダクターも入ります。
しかし、その方々もまた生業を抱え、瞬時に動けるのか?といった難問を抱えています。
東日本の時は、ある部署から「中核は物流の滞っていないところにいてください!」と止められました。これも当然ではあります。
渦中では情報も物資も求む事が出来ませんから。


水害でも同じ地域の避難所自体が危険地域であるなら、もう一つ外に避難しなければなりません。
どのような状態になれば隣接区へ逃げるのか?
このあたりをシナリオにしておく必要性がありますね。


また、影響のないところにお住まいの方が「間口」を開いてることを知らせるには?
これも、金沢市の浅野川氾濫時に伝わっていなかった部分です。


舘町の在所の皆さんを「新舘」エリアに招き入れる準備をするも、誰もお見えになりませんでした。
連絡網のシステムが無いためです。


仮にあったとしても、受け入れ世帯に制限もあるでしょう。在所の人数は「新舘」エリアの方々は知らないのです。
どれだけの寝床をセットすればよいかなど集まって来る方に合わせて、都度準備するとなると、誰かがつきっきりでお世話をしなければなりませんよね。
ボランティアってこのことでしょう?!
ボラ第一号ですよね。



さーっ 村上さんのお住まいの広田地区は、当時、救助犬を派遣させる際にノミネートしていない地域で、その先の大船渡(尾崎岬)と女川周辺を選定しました。


村上さんもおっしゃっていましたが、復興の際は高規格道路(防災道路)は必要だと。
これもどこかで書いた覚えが・・・


啓開に時間がかかると出るものも出せず、入り込むものも拒んでしまいます。被害の出そうな場所へは最低限二方向の道路が必要です。
それが、上下複線であっても良いでしょうし、天地複線でも良いでしょう。
建物でさえ、二方向避難を法制化してあるのに変ですよね。


石川県内は積雪時に道幅が狭まりますよね。これらも防災道路を考慮するなら主要道路の複線化は必須で、片側に積雪していても交差できる程度の幅員があれば良いのではと思いますね。
県内でもいくつかの地域は雪害や水害時に孤立する場所があるのですから。



いま、広田地区は高台移転へ向かっているそうです。
ただ、漁業で生計を立てている方が多く、農業をなさっている方と半々だそうで、漁港を抱える地域では生活の場が変わると、今までどおりの生活サイクルにはならないでしょうね。ここで復興ギャップが出て来るかもしれません。
街の復興は一貫性のある企画でも構わないでしょうが、個人のペースにははまらないのです。
一人一人、心もカラダも生活リズムも生活資金も違っているという事です。個人個人が復興するまでには、それなりの時間が必要でしょうね。




さて、先にも書きましたグラデーションですが、家屋に影響のない方々の中にはその場で滞在する方が出てきます。
これを「点在する避難生活者」といい、支援物資の配給などがある場合、非情に神経を使うことになります。
広田地区ではどうだったのかは伺いませんでしたが、点在する方にはそもそも動かせない方もいるということです。


寝たきりの方など、その場を離れる際には様々な設備も必要となり、避難所へ向かうも隔壁を要することになります。
付近に福祉避難所があればよいのですが、一帯はライフラインが途絶えており、無理して動かすことを拒んでしまう事もありえますよね。当然移動には車両も必要でしょうし。


それと、地域の結束力についても語られておられましたが、これも二方向の答えが出てきます。

ひとつは結束力により、事態を乗り越えられるケース。
もう一つは、結束力が強すぎて、外郭からの支援を受け入れないケース。
この2タイプが混在していますね。


前者は、うまくこなせられれば問題はありません。が、少しでも住民感情にひずみが生じた場合は分割するおそれがあります。
後者は、2月3日の白山市でのフォーラム時にも書き添えてありますが、「地域受援」に影響します。
「他人の世話になんかなれるかーっ」て言う人も出てくるんですよ。


実際、女川から先に進んだ牡鹿半島の一角で発生したと報告がありました。
情報収集を行うため訪れた先での出来事です。

大人たちが自生すると決め、少量の食べ物を置いていこうとしたが、大人たちは断ったそうです。しかし、帰路につく際、後からついてくる子供たちに「君たち、お菓子だけど本当にいらないのか?」と問うと、首だけ横に振り、支援者は大人たちから見えない角まで行き、手渡したそうです。
子供のポケットに入る程度しか取らないんですよ。たかが知れた数量しか隠せないじゃありませんか。


善意も押し売りするわけにはいけませんが、地域性によっては偏屈で理不尽な状況に接することもあります。



さー そろそろ締めてまいりましょう。


ディスカッションでは「東北に想いを寄せて」と題して、参加者同士のコミュニケーションと頭の引き出しを開く細工がなされていましたね。


私自身、ボランティアという言葉には「尊厳あるもの」と認識しています。その為、滅多に使いません。
たまたま行いがボランティアとなっているだけ、真意は「ボランティアは破綻を覚悟して行う」活動だとも自分に言い聞かせています。
私も幾度か職を失っていますのであえて書き添えさせていただきます。


私のテーブルでは、いい意見をなさる方も多く、ちょっと新鮮さを感じました。


しかし、ボランティアからの入り込みなんですよね。確かに支援は必要なんですよ。
他県で長く防災ボランティアを続けている方も同じ意見なのですが、あくまでも一般ボランティアは数日後からなんです。
必要になるまでには情報ネットワークや支援体制を整えるために、自所で企画を練っていただき、聞き耳を立て、タイミングを見計らっていて欲しいのです。
必ず現地から「手が挙がって」来ますから。


必要なのは「手を挙げている事を見逃さない」事なんです。これが先乗りチームへの後方支援であっても良いんです。あとに続けがありませんと、現地の一号支援者がくたびれてしまいます。第一号は側近活動ですから被災者と直結しているんですよね。
この方々が息切れしてしまうと、残念ながら被災者の命も失うということなんですよね。


ちなみにですが、私ですら現地に向かう際、グラデーションゾーンに差し掛かり、その地の子供たちに自分の食するモノを与え、目的地に着く頃には自分の分は無い状態です。支援者も被災者と同じ立場になってしまうのです。
こんな状態で、何日間右往左往することができますかね?
当然、グラデーションゾーンからの手を挙げている方々を見逃さないためにした自責の行為ですよ。
その先へ進むにつれ、営業しているお店もなければ、手に入る品もないってことは想像できますよね。
こんな動きをしなければならない状況がそこにはあるのです。もっと奥深い話もあるのですが、活字では到底お伝えできませんので、この辺にさせていただきます。しかし後方支援の重要性は伝わるでしょう。


決して悪いイメージをつけようとは思いませんが、行うなら覚悟を決めて、路線を定めて向かうことをお勧めします。


その代わり、初期活動が済めば、我々は次の事案に向けてスタンバイします。このあとからは、みなさんの企画で展開していただくことになります。



さて、終盤はみなさんが発信したコメントをまとめ、代表者が発表するといった、ちょっとしたQCスタイルですね。


これに時間をかけても良かったかもしれませんね。


今回の目的でもあったのですが、「みなさんの目線を知りたい」。これが、実際に活動なさって成果を得た方々と、今からスタートを切ろうとする方々、被災地出身者、被災者、自治体関係者といった立場の違いで、それぞれとはなるのでしょうが・・・。


しかし良い意見を聞かせていただけたことには間違いありません。感謝申し上げます。


もう一つ付け加えるなら、被災自治体の制度や対応なども知っていただけると、知識にはなっていくかと思います。いまだに「罹災証明」の存在をご存知ない方も多く居られますのでね。


さて、今後の金沢大学ボランティアさぽーとステーションの活躍に期待を寄せ、ブログはこのあたりで締めさせていただきましょう。有意義な一日をありがとうございました。


(※連続車両放火時にぶら下がっていただいたHAB(北陸朝日放送)さんもお見えでしたので、ご挨拶させていただきました。)



尚、追記については「D-Book」にて記させていただきますね。
ではまたお会いしましょう。