丸い心と不動のわたし|ヌーソロジー
■ はじめましての方はコチラ ■自己紹介このブログの趣旨について■ Cosmo Lifeology(コスモ・ライフォロジー)について ■人生を小宇宙と捉え、潜在化している時空(人生)の中から宇宙の構造を見出し、その構造を人生に適用させていく宇宙人生論を提唱しています。コスモ・ライフォロジーはヌーソロジーをベースに組み立てた思想です。コスモ・ライフォロジーとは?コスモ・ライフォロジー記事一覧はこちら耳から学ぶヌーソロジー★NOOS WAVEについてnatanインタビュー配信中natanが語る”ヌース体感までの道のり”natanが語る“ヌース体感までの道のり”(その1) - 「 NOOS WAVE:半田広宣が語るヌーソロジーのエッセンス 」- オーディオブック | himalaya「 NOOS WAVE:半田広宣が語るヌーソロジーのエッセンス 」 全部聞けます。ヌーソロジーとは何か? ヌーソロジーって何なの?とよく訊かれる。一応、「nooso...www.himalaya.com私の宇宙からこんにちは、natanです(^^)ちょっと今日は久しぶりに、ヌーソロジーネタをお届けしたいと思います!思ったこと、感じたことを言語化しますので、今日は乱文、装飾なしで失礼しますm(_ _)mヌーソロジーでは意識の顕在化が起こることによって、高次元のカタチを知覚できるようになったり、不動のわたしを感じるようになる、なんて言われますよね。私が考えるに、本家ヌーソロジーの意識顕在化って相当ハードルが高いと思っていて。べつにこれは、半田さんを悪く言っているわけじゃないですからね(;´∀`)ほら、以前もお話しましたが、ヌーソロジーがやっている空間認識って、シュタイナーが霊視で捉えた人類の今後の予測から考察するに、約1500年フライングして取り掛かっているとのことなので(笑)相当ハードル高いのですよ(笑)★過去記事はこちら★正しい空間認識を学ぶ前に☆『正しい空間認識を学ぶ前に☆』わたしの宇宙からこんにちは、natanです本日もご訪問ありがとうございます■ はじめましての方はコチラ ■自己紹介このブログの趣旨について■ 一番大切…ameblo.jpだからこそコスモ・ライフォロジーでは、その意識顕在化に必要な所作や作法をまずは身につけよう、ということで取り組んでいるわけですが。ある日、ふと思ったのです…。今現在、私たちの自我意識は客体化していますよね。ミックスツイン構造で見る次元観察子では、他者側の観察子に該当します。★関連記事はこちら★双子を身ごもる思形と感性①潜在期における次元観察子『双子を身ごもる思形と感性①潜在期における次元観察子|ヌーソロジー』■ はじめましての方はコチラ ■自己紹介このブログの趣旨について■ Cosmo Lifeology(コスモ・ライフォロジー)について ■人生を小宇宙…ameblo.jp双子を身ごもる思形と感性②顕在期における次元観察子『双子を身ごもる思形と感性②顕在期における次元観察子|ヌーソロジー』■ はじめましての方はコチラ ■自己紹介このブログの趣旨について■ Cosmo Lifeology(コスモ・ライフォロジー)について ■人生を小宇宙…ameblo.jp私の考えでは、今の時代は「他者側の観察子を顕在化させる時期」だと捉えているのですが、じつはこの時期、客体化した自我意識でも、何かしら意識顕在化につながるものを感知できるのではないだろうか?と思ったのです。そう思った理由は、いつものごとく実体験から感じたのですが…。まず一つ目は、意識顕在化における高次元のカタチの知覚について。これは私も体験がないので、よくわからんのですが(笑)でも、自分の実体験としてかすかに理解できるのは、「自分の中に世界がある」ということ。これにさらにカタチが伴ってくるのかなぁと。でも、そのカタチはけっして「見る」ということではなく、モノの内部から見るということなので、結果的に内側から「感じる」というものになると思うのです。そして、この内側から「感じる」ということについて。私は愛着に傷を追っている人間なので、自己内観をして心のケアをするまで、自分の心がどれほど凸凹しているのかを知りませんでした。しかし、自己内観を通して心のケアに取り組むことで、次第に心がま~るくぷっくりする感覚を得たのです。そして、ホカホカ温かいのです。その感覚を得たことで、今までの自分の心がどれだけ凸凹だったのかを思い知ったという経験があります。その感覚を得た当時は、「あ~、心って丸いんだなぁ」なんて漠然と感じていたのですが、この感覚が当たらずとも遠からず、ヌーソロジーがいう高次元のカタチの知覚の初歩の初歩のまた初歩の初歩の段階なのかなと思ったのです(笑)遠い!!(笑)そして二つ目は、不動のわたしについて。ψ3顕在化のときに、不動のわたしを体験すると思われるのですが、この不動のわたしは客体化している状態でも感じられるときがあると思うのです。これも実体験からですが、人生の中で何度か自我がめちゃくちゃショックを受ける出来事を体験してきた私。ショックのあまり、泣いて泣いて泣いて、自我が暴れ苦しむ時間をある程度過ごすのですが、その後に起こる不思議なこと…。それは、自我が暴れまくったその後に、私の心の奥底にじっと座って?、それともずっとそこにいる?不動の私を感じるのです。本当に微動だにしない、昭和の頑固親父があぐらをかいてズン!と座っているというか(笑)船のイカリとでもいうような、いや…、大きな岩のような、大地とでもいうような、なんと表現すればよいのやら…。その不動の存在を感じると、今度は自然とこう思えるようになるのです。「まぁ、何とかなるなる」あれだけ悩み苦しんでいたのに、その不動の存在に気づくとなぜか安心しちゃうのです。そして、前向きな気持ちになれたり、悲しんだ出来事に対して、「私のことを良い意味で見返してやる!」と自己肯定感アゲアゲな発想を持つようになったり。この不動の存在は、感じようと意図的に思っても感じられない存在。本当にショックで自我がやばい!となった状況においてのみ、ようやく出会える存在。会いに行こうと思っても会えないのです。なぜなら、それは会いに行くものではなく、いつもそこに”いる”から。自我意識が見えなくさせているだけなのです。だから、強烈なショックによって自我が活動停止寸前までいくと、ようやくそこにいる不動の存在に気づけるのです。客体化している意識で感じている存在なので、「私とは分離した存在」のように感じられるのですが、これがψ3顕在化になると、「その存在こそわたしである」という感覚になるのかなぁと思います。以上のように、客体化している意識でも、自己側観察子の顕在化を客体化した形で感じ取れる瞬間はあるのではないだろうかと、実体験を通して思うのです。あくまで個人的な感想ですけどね。相当ショックな出来事が起こらないと感じられないことかもしれませんが、他者側そして自己側の観察子顕在化に必要なことは、人間の低次自我意識を超えることだと思うのです。その自我を超えることが、相当ショックな出来事によって自我の活動が停止寸前までいくこと、そして素の自分に戻ったときなのかなぁと。でも、毎回ショックなことを体験するわけにもいかないし(笑)そして、自分自身に「どんだけショックなことを体験してきてるんだよ!」ってツッコミ入れたくなるけど(笑)でも私にとって、その内部で感じるものはすごく印象的だし、ショックな出来事の後に感じることだからこそ、なおさら自分の存在を心底大切に思えるんですよね。今日は乱文になっちゃってますが、意識が顕在化しなくても、客体化した自我意識でも何かそれに近いものを感じられるんじゃないかな?というお話でした(^^)次回は、またコスモ・ライフォロジーの話に戻りますね。次回もお楽しみに♪■ 随時質問受け付け中■ヌーソロジー初心者さんの質問を受け付け中☆「いまさらこんなこと聞けない…」という質問も大歓迎!どの記事でも構いませんのでコメント欄に質問していただければお答えします。お気軽にどうぞd(。ゝω・´)Twitterやっています♪ @nana77_universe▼ ブログ更新の励みになります。ぜひ応援よろしくお願いします▼にほんブログ村人気ブログランキング