🔼続きです

6.それは愛ではなく、恐れかもしれない
子どものため、の顔をした自己防衛

母はよく、こう考えます。
厳しくするのは、愛だから。
教えるのは、親の責任だから。
今ここで止めなければ、この子は困るから。

その思考自体は誠実で、真面目で、これまで母を支えてきたものです。だからこそ疑うこと自体が苦しい。
けれどここで一度だけ視点をずらしてみる必要があります。

母が「今、正さなければ」と感じる瞬間、
本当に下げたい不安は、誰の不安でしょうか。


子どもが将来困るかもしれない不安。
世間からどう見られるかという不安。
「ちゃんと育てられなかった」と評価されるかもしれない不安。

それらは確かに子どもに関係しているようでいて、母自身の内部で発生している感覚です。
家族力動の視点で見ると、これはよく起こる現象です。

不安が高まったとき、
人は「コントロールできる行為」に戻ります。

・言葉を強める・ルールを増やす
・説明を重ねる・正解を示す

これらは、子どもを導く行為に見えます。
けれど実際には、不確実な状況に耐えきれなくなった自分を落ち着かせるための動きであることが多い。

つまり、厳しさそのものが問題なのではありません。
「厳しくせずにはいられない状態」が、すでに始まっているということです。

ここで、多くの母が無意識にすり替えているものがあります。
「不安を感じている私」⬇️
「この子のために動いている私」

この変換が起きた瞬間、
行動は正当化され、止める理由がなくなります。


だから同じ説明を繰り返す。だから言葉が強くなる。だから関係が硬直していく。

それでも母は「愛しているから」と思っています。その認識は、間違いではありません。

ただし、愛と同時に恐れも混ざっている
という事実だけは、見落とさない方がいい。


恐れが混ざった愛は、無意識のうちに相手の自由を狭めます。
なぜなら、「この通りにしてくれなければ安心できない」という条件が、関係の中に入り込むからです。

母が握りしめているのは、子どもの未来ではありません。
「こうあってほしい」という自分の中の安全な世界です。


ここに気づくことは、痛みを伴います。
なぜなら「正しい母」でいようとしてきた自分が、同時に「怖がっていた母」だったと認めることになるからです。

けれどこの痛みは自責へ向けるためのものではありません。行動を変えるための、唯一の入口です。
恐れに基づいた関わりは、やめようと思って
やめられるものではありません。
まず、恐れている自分に気づくこと。
それができたとき、初めて選択肢が生まれます。

次章では、母が立つ位置を変えたときに見えてくる「新しい世界」の輪郭を描いていきます。
正しさで子どもを見る視点から、信頼で関係を見る視点へ。
その移行が、なぜ可能なのかを理論と現実の両方から示します。


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