感情の波が少し落ち着いたあと、今度は静かな問いが残ります。

「あれで本当によかったのだろうか」
「私の関わり方が、結果を左右したのではないか」。




⏫こちらの記事で触れた感情の暴走が一過性のものだとしたら、この罪悪感はもっと粘着質です。

時間が経つほどに、過去の場面が何度も呼び戻され、母は結果そのものではなく、
「責任を負わずにいられない自分」と向き合わされていきます。



結果のあとに始まる、母だけの時間


結果が出た直後の混乱が少し落ち着いたあと、
母の中で、もう一つの時間が静かに始まります。

それは、誰にも見えない場所で続く、
終わりのない思考の反芻です。

「あのとき、ああしていれば」
「もっと声をかけるべきだったのか」
「逆に、口を出しすぎたのではないか」。

答えが出ないと分かっていながら、
思考だけが同じ場面を何度も巻き戻す。
時間を変えられないことも、
結果がもう確定していることも、
頭では理解している。

それでも、
考えることを止められない。


このとき母が苦しんでいるのは、
結果そのものではありません。

「結果が出た」という事実を前にして、
自分の関わり方に、意味を与えずにはいられない状態に置かれていることです。

もし、あの選択が違っていたら。
もし、あの一言が余計だったら。
もし、もっと信じていれば、あるいはもっと導いていれば。

こうした思考は、
前向きな反省のように見えます。

けれど実際には、
未来に活かすための検討ではなく、
過去を裁き直そうとする思考です。


母はこのとき、
子どもの努力や現実を見ているのではありません。

「私の関わりは、正しかったのか」
「私は、母として間違っていなかったのか」。

結果をきっかけに、
問いの矢印が、
一気に自分自身へと向いてしまっている。


この思考ループは、
弱さから生まれるものではありません。

むしろ長い時間、責任を引き受け続けてきた母ほど深く、静かにハマり込みやすい。

この章ではまず、
なぜ結果のあとに
この「私のせいだったのではないか」という思考がこれほど執拗に立ち上がってしまうのか。

その入り口を、丁寧に見ていきます。


反省ではない。意味を失わないための思考


多くの母は、
この思考ループを「反省」だと思っています。

「ちゃんと振り返っているだけ」
「次に活かすために考えているだけ」。

そう自分に言い聞かせながら、
同じ場面を、何度も心の中で再生する。

けれど、ここには
見落とされやすい盲点があります。

その思考は、
本当に反省でしょうか。


反省とは、本来、
次の行動を変えるための整理です。
前提として、
「まだ修正できる未来」があります。

しかし受験結果は、もう確定しています。
やり直すことも、
条件を変えることもできない。

それでも母の思考が止まらないのは、
未来のためではありません。

起きているのは、
責任を引き受けることで、結果に意味を持たせようとする心の動きです。

もし、
「私の関わり方が結果を左右したのだ」と考えられれば、
結果は偶然でも、理不尽でもなくなります。

たとえ苦しくても、
自分が引き受けた責任として整理できる。

逆に言えば、
「私にはどうにもできなかった」
「誰のせいでもない」
そう認めてしまうことのほうが、
母にとっては、耐えがたい。

努力した時間が、
緊張に耐えた日々が、
何の因果もなく終わってしまう。


その無意味さを直視するくらいなら、
自分を責めるほうが、まだ耐えられる。


だから母は、
無意識のうちに責任を引き受けます。

「私のせいだったのではないか」という問いは、
自罰の形をした、意味づけの試みなのです。

この構造に気づかないままでは、
母は「考えすぎる自分」を責め続け、
思考はさらに深く沈んでいきます。

次の章では、
なぜ母がここまで責任を引き受けやすいのか。

その心理的な背景を、
まず一つ、解きほぐしていきます。




なぜ人は「私のせい」にしたくなるのか

 罪悪感とコントロール幻想 


まず理解しておきたいのは、
罪悪感そのものは、異常な感情ではないということです。

罪悪感は本来、
「自分の行動が誰かに影響を与えたかもしれない」と感じたときに生まれる社会的な感情です。

問題は、その罪悪感が、
現実以上の責任を引き受ける形に膨らんでしまうときです。


ここで働いているのが、
心理学で言われるコントロール幻想です。

人は、予測できない出来事や、
努力と結果が一致しない状況に直面すると、
強い不安を感じます。

「頑張ったのに、うまくいかなかった」
「あれだけ耐えたのに、報われなかった」。

この不確実さに、人の心はとても弱い。

そこで心は、
世界をもう一度“理解できる形”に
組み立て直そうとします。

「私の関わり方が結果を左右した」
「だから、この結果になった」。

こう考えることで、
世界は再び因果で説明できるものになります。

たとえそれが、
自分を責めるストーリーであっても。

「私のせいだった」という考えは、
自罰であると同時に、
世界を理解可能なものに保つための装置なのです。


もう一つ重要なのが、
不確実性耐性の問題です。

長期間の受験期は、
母の不確実性耐性を大きく削ります。


先が見えない。
正解が分からない。
判断の結果がすぐに返ってこない。

その状態で走り続けたあと、
結果が出た瞬間、
心はもう曖昧さに耐えられなくなっている。

だから、
「分からない」「どうしようもなかった」
という結論よりも、
「私が悪かった」という
明確な原因に飛びついてしまう。

それは、弱さではありません。
限界まで耐えた心が、
不確実性から逃れるために選んだ、
一つの安全策なのです。

次に見るのは、この心理が、
なぜ母という立場で
特に強く作動してしまうのか、です。




母という役割が、責任を引き寄せてしまう構造



心理だけでは、
この罪悪感の重さは説明しきれません。

もう一つ、
母を縛っているのが、
家族というシステムの中での役割です。

母親という役割には、
最初から過剰な責任が内在しています。


子どもの生活管理、
感情のケア、
進路への関与。

それらは「サポート」であるはずなのに、
いつの間にか
「結果への責任」と結びつけられていきます。

受験結果についても、
こうした語られ方を
無意識に耳にしてきた母は多いはずです。

「お母さんがどう関わったか」
「家庭での声かけはどうだったのか」。

このとき、
父の関わりは詳細に問われにくく、
学校の指導や制度の制約も、
個別には検証されません。

結果として、
家庭の中で最も関与していた母が、
責任の集約点になります。


これは、
誰かが意図的に押しつけているわけではありません。

「母が一番分かっているはず」
「母が一番近くにいたはず」。

そうした暗黙の期待が、静かに、しかし確実に母を“背負う位置”に固定していきます。

この構造の中で結果が出れば、
母がこう感じてしまうのは自然です。

「私が、何とかできたのではないか」
「私が、引き受けるべきなのではないか」。

罪悪感は、
個人の性格ではなく、
この役割配置の中で
強化されてきた感情でもあるのです。


次の章では、
心理と家族力動が重なったとき、
母の内側で実際に何が起きているのか。

この罪悪感の“核心部分”を、
さらに掘り下げていきます。




◎ここから先は


ここまで読んで、
「構造は分かった。でも、気持ちは全然軽くならない」
そう感じている方もいるかもしれません。

それは当然です。
なぜなら、ここまでで扱ってきたのは
なぜ罪悪感が生まれるのかであって、
その罪悪感をどう置き直すかには、まだ踏み込んでいないからです。

罪悪感は、理解しただけでは消えません。
それが守ってきたものを知らずに手放そうとすると、かえって心は不安定になります。


ここから先は、
母の中で罪悪感が果たしてきた役割と、
それを壊さずに再配置するための視点を扱います。

これは、
「楽になる話」ではありません。
母が、自分の人生に戻るための話です。


https://note.com/hapihapi7/n/nbfbade41760f