徳川慶勝 その二 | にっくんのブログ

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徳川慶勝 その二


徳川慶勝

徳川慶勝公の写真



 尾張徳川家は、宗睦の死後、四代にわたり将軍家に近い紀州系の藩主が続きました。
 尾張家は初代義直以来勤皇の家柄でした。四代にわたり幕府から押しつけられた藩主に、藩士たちの不満が高まりました。勤皇派の藩士たちは金鉄党を結成し、幕府よりの藩士たちはふいご党を結成し、藩内は二つに分かれました。
 その中で十三代藩主、徳川慶臧(よしつぐ)が十二歳で亡くなり、幕府は将軍家に近い人物を押しつけようとしましたが、尾張藩内ではそれに反対する意見が強く、高須藩出身の慶勝が十四代藩主となりました。慶勝は母が水戸の徳川斉昭の姉ということもあり、水戸藩とは強い関係で結ばれていました。十五代将軍徳川慶喜は従兄弟になります。そのため十三代将軍家定が亡くなった後の将軍継嗣問題では一橋派に属しました。しかし十四代将軍は紀州家の家茂に決まり、大老、井伊直弼に睨まれました。直弼は安政五年(1858年)勅許を得ずに無断で日米修好条約を結んだために、それを詰問するために徳川斉昭、一橋慶喜、松平春嶽とともに登城。しかし無断登城を理由に隠居蟄居を命じられました。これが俗に安政の大獄といわれる事件です。慶勝は隠居し、尾張藩主は弟の徳川茂徳が相続します。
 しかし安政7年(1860年)に井伊直弼が桜田門外の変で倒れると、文久3年(1863年)に弟の茂徳を隠居させ、実子の義宜を十六代藩主に就かせ、再び尾張藩の実権を握ります。
 その後、時代は大きく動き元治元年(1864年)七月十九日、京都で長州藩が禁門の変が起こし薩摩藩、会津藩に撃退されます。幕府はその懲罰として長州出兵を行います。当初は紀州藩主の茂承が征討軍総督に任命されますが、後に慶勝に変更されました。この際慶勝は将軍から全権委任をえて、幕閣の干渉を避けました。そして薩摩藩の西郷隆盛を参謀にします。慶勝は広島城に赴きますが、この時、趣味の写真器を持ち込み広島城内を撮影しています。物見遊山的な行動ですが、慶勝としては長州藩に対する処罰を穏便なものにするつもりだったのでしょう。
 当時、四国連合艦隊を相手に戦った下関戦争で敗れ窮地に立たされていた長州藩は、幕府に対する恭順の意を示しました。慶勝は長州藩の三家老の切腹だけですますと、京都に戻ります。当然ながら幕府内の強硬派の間では生ぬるいと言う意見があがりました。
 その後、慶応二年(1866年)一月、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が成立。長州藩内では再度勤皇派が藩の実権を握ることになり、幕府に対し反旗を翻す。その年の六月、幕府は再度長州征伐を行います。これを第二次長州征伐といい、当初総督に前尾張藩主だった慶勝の弟、茂徳が就くことになっていましたが、慶勝が反対し、総督には紀州藩主の徳川茂承が就きました。この戦いには薩摩も出兵を拒否し、最新式の兵器で武装した長州軍に対し、幕府軍は各地で敗退。さらに大坂にまで出陣していた十四代将軍家茂も病死し、幕府の威信を失墜させるに至りました。


続く