腐ったミカンが一つあると周りのミカンも腐る。
だから腐ったミカンはいらない。

中学時代の恩師がよく言っていたこと。
これは集団生活における鉄則。
剣道部顧問の恩師のこの言葉。
簡単に言うなれば部員に1人でも駄目な人がいると
部が駄目になるということである。

駄目な人=弱い人ではない。
駄目な人=一生懸命に稽古しない人。

である。
1人でも気が抜けてたり、さぼったりしてると稽古がだらしなくなる。
これは今の自分に反省するべき点でもある。

小学校1年生が授業が聞けず、授業中に走り回っているらしい。
1人がこの行動をしたとき、一気に伝染する。
子供というのはそうゆうもの。

学校が腐ってゆく。
すると腐った人間しか育たなくなる。

教育は大切。
大人として子供を抑えることが出来ない現代の学校社会。

そのうち自分の感情や衝動を抑えられない大人が社会に出てくる日も
遅くは無いと思う。

学校が腐ったら国が腐る。自由すぎるのもいかが?と思う。

人は切磋琢磨して成長してゆくもの。
そのためには競い合うに相手が必要。

「No.1にならなくても良い。もっともっと特別なオンリーワン。」

オンリーワンになるために何か一つNo.1を目指してほしい。

「ならぬものはならぬのです。」

幼少時には何が正しいかなんて判断はやはり未熟。
間違ったことを強制してはいけないが、正しいことは強制しても良いと思う。
やはりこのままでは本当に教育が腐ってしまう気がする。

いまだ木鶏たりえず。
されど我、事に於いて後悔せず。

高校時代に卒業間近だった気がするけど何かに書いた一言。
引用分の組み合わせですが、ふと読書をしていて

こんな事、書いたなぁ~

と思ったので・・・。

ずいぶん背伸びをした高校生。こんな高校生可愛くない。
と自分でも思う。

「いまだ木鶏たりえず。」

これは中国の荘子という人が残した言葉ですが
日本では大相撲69連勝記録を残した双葉山関が70戦目にして
連勝が止まったときに残した言葉として有名。

中国での昔話

紀?子が王の命令で軍鶏を訓練することになった。
十日にして、王が尋ねた。「もう、戦えるか」と。
「まだまだです。むやみにやる気を見せているだけですから」
また、十日して王が尋ねると、
紀?子は、「いえ、まだです。ほかの軍鶏の声や姿にいきりたつ状態ですから」
さらに、十日して王が尋ねた。
「まだです。相手をにらみつけ、闘志を見せますから」
そして十日後、王が尋ねると、
「やっとものになってきました。他の軍鶏が声をあげても、いっこうに動じません。
まるで木彫りの軍鶏のようで、徳が身に付いた状態です。
もはや他の軍鶏でかなうものはなく、後をむいて逃げだすでしょう」。

この闘志を秘めつつ冷静沈着かつ徳を得た鶏が「木鶏」

「いまだ木鶏たりえず」

つまり

「まだ、木鶏のようにはなれなかった」

ということ。双葉山関の記録も凄いけど、この引用もまた素晴らしい。
大横綱は文武両道であったことがよくわかる。


「我、事において後悔せず」

これは宮本武蔵の言葉。簡単に説明すると

「私は、自分のしたことを後悔しなかった」

ということ。人生1度、生きるか死ぬかの真剣勝負をしていた宮本武蔵らしい言葉。
反省と後悔は違う。
失敗は誰でもする。だから反省して次は失敗しないようにする。
後悔は自分のしたことを悔いること。

ああしておけば良かった・・・。ってね。


フーテンの寅さんはこう言ってました。

「いいか、幸せってやつは布団に入って目つぶる時に「今日はいい一日だった」って
思えたら幸せって事なんだよ。」

たしかこんなセリフ。
人生は失敗の連続。だからこそ後悔ではなく、反省となるように生きたい。
にしてもどれだけ背伸びをした高校生だったのだろうか?

と思ったけど今の自分は少し現実を見すぎで理想を追っていない気もする。

理想はやはり「かっこよく生きる!」

息子に良く話すこと。

「謙。それは格好いい事?」
「格好いい男になりなさい」

そのうち言われそう…

「パパ、かっこ悪い。」ってね(笑)
自分がしていることは正しい事だろうか?


「右の人にされて嫌なことは、自分の左の人にはしてはならない」

罪悪感とはどこから生まれるか考えたときこの言葉が浮かんだ。
たしか論語だった気がしたので気になって調べてみた。
やっぱり論語だった


子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、
子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人

子貢問いて曰く、「一言にしてもって終身これを行なうべきものありや」、
子曰く、「それ恕か、己の欲せざるところは、人に施すなかれ」

出典:「論語-衛霊公」


相変わらず漢文にすると難しく感じる。
簡単に自分なりに訳すと

孔子の弟子の子貢が質問をした。
「一生守らないといけないこと一言でいうと何でしょう?」

孔子が答えた。
「それは恕(=人に対する思いやりのこと)だな。
     自分がされたくない事は、人にしてはいけない」


きっと偉い先生に聞いたらちょっと訳し方が違うって言われるかもしれない
けど、だいたい合ってるはず。
こうして日記を書いていて自分を客観的にみると思うことがある。

なんだか俺は偽善者っぽい。
そして「偽善者」って書いてふと思い出した!


実は学校の先生に

「あなたのいい子ぶってるところがムカツク。偽善者だよ」

と言われたことがある。
たしか何かを謝りに行った時のことだと思う。
今考えても社会的には先生が生徒に対する言葉として衝撃的な言葉だが

「偽善者で結構。いつか本当の善者になるはずだから。」

って当時も思ったし、今も思っている。
だからどうやら僕は「偽善者」らしい

とりあえず、一日を振り返って人に嫌な思いをさせていないだろうか?


妻に苦労をかけている。
自分の子供の面倒も見ずに稽古に行き、好きな事ばかりしている。
でも悪いことしてるんじゃないと自負している。
むしろ良いことをしていると・・・偽善である

己の欲せざる所は、人に施すなかれ


なかなか難しい…。

ただ子供たちにはこうゆう考えを根から持った人間になってほしいと思う。