春の訪れを待つこの時期になると決まって、寺山修司の詩「幸福が遠すぎたら」を口ずさみたくなります。15年ほど前のことですが、私もブラリと青森県三沢市の寺山修司記念館に出かけたことがあります。近くに大きな沼があったのを記憶しています。閑散とした館内を一人で見て回りました。寺山の青森弁の独特な語り口からは、会津とは違ったもう一つのみちのくがありました。

 寺山は三島由紀夫とも「エロスは拠点の抵抗になり得るか」というテーマで対談をしています。政治的なスローガンが文学的な意味を帯びていた時代がありました。政治的な変革が全ての意味で人間の解放に結び付くという夢は、儚い願望でしかありませんでしたが、それに多くの若者が突き動かされたのでした。

 寺山が「政治的言語と文学的言語の波打際をなくしていこうという、わけのわからない乱世の中におもしろ味があるわけですよ」(『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』)と語ったことに共感したからこそ、新左翼の学生運動は盛り上がったのでした。しかしながら、リアリストに徹しなければ、現実の政治を語ることができないことを、私たちは世の中に出て思い知らされたのでした。

 

「幸福が遠すぎたら」 寺山修司 『ポケットに名言を』に収録

 

さよならだけが 人生ならば

また来る春は何だろう 

はるかなはるかな地の果てに

咲いている野の百合何だろう

さよならだけが 人生ならば

めぐりあう日は何だろう 

やさしいやさしい夕焼と

ふたりの愛はなんだろう

さよならだけが 人生ならば

建てたわが家は何だろう 

さみしいさみしい平原に

ともす灯りは何だろう

さよならだけが 人生ならば 

人生なんかいりません