小野田紀美さんの「私は卑弥呼の時代から歴史を刻んできた我が国そのものに忠誠を誓っています」というXに対して、ジャーナリストと称する志波玲なる人物が「中学校の公民からやり直した方がいい」と馬鹿にしているが、愚かなのはどちらだろうか。

 憲法上の国民主権という思想は、多数決で国民が何でも決めてよいように思われがちだが、実際はそうではない。法哲学の尾高朝雄が「ノモスによる支配」という考え方を示したように、目指すべき崇高な理念を前提にして始めて、多数決といルールが成り立つのである。ルソーも『社会契約論』において国民主権を口にしながらも、それを絶対視することはなかった。

 日本国憲法第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書いてある。

 それをどのように解釈すべきかを明確に示したのが尾高であった。国民主権が衆愚政治に陥らないための、防波堤として法の理念を重視した。だからこそ、尾高は「国民がいかに努力しても、決して常に正しい政治が行われ得るとはかぎらないのが現実であるとするならば、さような現実を超越する法の理念をば、国家機構の中に何らかの形で『象徴』させるということにも、深い理由があるといい得るであろう」(『国民主権と天皇制』)と解説したのだった。

 それが「象徴」としての皇室の存在意義であり、日本の国柄として連綿と受け継がれてきたのだ。小野田さんはそれを語っただけである。大日本帝国憲法の改正で成立した現行憲法は、尾高のいう「ノモスの支配」を念頭に置いているからこそ、国民主権と天皇制とは対立するのではなく相互補完の関係なのである。