永井陽之助は自民党について「八岐大蛇(やまたのおろち)のような多数“派閥”の連合組織である。せいぜい、四、五〇名の小集団(派閥)であるがゆえに、個々の党員や代議員の実質的参加意欲を充足させ、社会各層、各地域の微細な利益をくまなく吸収することが可能となる。日本社会の必要性から生まれたこの軟性組織が戦後、しぶとい適応性をしつづけているのも偶然ではない」(『時間の政治学』)と書いた。
思い起こせば政治改革の大合唱が起きたのは、平成3(1991)年のことであった。翌年に自民党から追い出されそうになった小沢一郎らが、それを持ちだして選挙制度を変えることを迫った。東京佐川急便からの資金提供を受けた金丸信が失脚し、側近であった小沢は、生き残りのために「政治改革」の旗を掲げ、自分たちを改革派、それ以外は守旧派と位置付けたのだ。
平成5年6月18日、宮澤喜一内閣への不信任案が可決され、7月18日の総選挙で自民党は過半数を失い、非自民8党派による細川護熙連立政権が誕生した。細川と自民党総裁であった河野洋平とのトップ会談を受けて11月18日、小選挙区比例代表制が導入する政治改革法案が可決された。
そのときから「三角大福」といわれた、中選挙区時代のような派閥の力は衰退し、その時々の国民の動向によって、政権交代は実現するようになったが、石破茂のような独裁者が現れることまでは想定していなかったのである。
マスコミは派閥を悪者のように考えているが、国民の多様なニーズを受け止めるには、政治参加を実現するには、それなりの機能を果たした。自民党が石破一人に振り回されているのは、独裁を許さない派閥がないからであり、マスコミがリードした政治改革騒動を抜きには語ることができないのである。