7月は仕事が立て込んでいましたが、何とか乗り切れそうです。老いてなお頑張れるのは、それしか僕はできないからだと思います。ようやく見通しが付いたので、好きな本でも読みたい気分です。
何度も何度も読み直しているのは、ドストエフスキーです。『カラマゾフの兄弟』(原卓也訳)の「大審問」を熟読し、僕なりの感想を認めたいと思っています。
なぜキリストは言葉を発することなく、老大審問官にキスをしたのだろうか。独り言として語る老審問官の言葉は、まさしく現代に生きる私たちの肉声のように思えてならない。兄のイワンの話に聞きりながら、アリョーシャは必死になって理解しようとする。それでイワンに食い下がるのも、人間の素直な感情ではないだろうか。
人間を信じて自由を与えてしまったキリストは、もはや話す言葉がないのであり、全ては人間自身に任せられるのである。神を否定して、偶像礼拝にすがる者たちをも、無視するのではなく、黙って見ているだけなのである。
キリストの沈黙は、私たちに対して、自らが自分の生き方を問うことを望んでおり、それがどうなるかに関しては、キリストの力も及ばず、私たち自身の問題である。
それにしても、劇場で演じられる芝居のように、キリストも老大審問官も、イワンもアリョーシャも、観客ではなく、役者として演じさせたのが、ドストエフスキーのすごさである。だからこそ、バフチンは「ポリフォニー」(多声音楽)という言葉で説明しようとしたのではないでしょうか。
