待てどくらせど来ぬひとを

宵待草のやるせなや

今宵は月も出ぬさうな

 

 

待てどくらせど来ぬひとを

宵待草のやるせなや

今宵は月も出ぬさうな

 この竹久夢二詩碑が銚子海鹿島(あしかしま)に建設されたのは昭和43年のことです。房総夢二会の趣意書には「夢二は明治43年と44年とに銚子海岸に住んだ。しかも42年には銚子に住む恋人を得、再度来銚した43年には失恋して『宵待ち草』の詩を作ったと思はれる」と書かれています。
 青江舜二郎によれば「全国いたるところに、夢二の〝宵待草〟の碑が建てられ、そこはその土地の女性、あるいは夢二がそこへ連れてきた恋人との悲恋の跡とされている」(『竹久夢二』)が、実際の舞台となったのは銚子海鹿島でした。しかし、そこでの恋人とされる「お島さん」の女性の名前が明らかになったのは、何と昭和43年になってからです。
 そのときのことに触れた一文としては、岸たまきの「あしか島でまた新しい愛人お島さんを作り出しました」(『夢二の想い出』4)というのがありますが、「お島さん」については謎に包まれていました。地元の雨谷茂民氏が、ジャーナリストで詩人の越川芳麿氏に語ったことで、ようやく夢二ファンの理解するところとなったのです。
 その話によると、北海道の福山藩(松山藩ともいう)から銚子に移ってきた長谷川康氏が「お島さん」の父親で、娘3人、男の子が1人いました。娘は長女島、次女賢(かた)、三女かおるでした。成績優秀な島は東京のお茶の水女子師範に入学し、教師として各地を転々とし、生涯独身を貫きましたが、戦災に遭って銚子に舞い戻り、雨宮氏を頼ったのでした。肺の病気が進んでおり、そこで亡くなりました。なぜ雨宮氏が詳しいかというと、賢の弟に雨谷氏の妹が嫁いでいたからです。
 しかし、モデルはその島ではありませんでした。次女の賢(かた)の方でした。勉強も好きではなく、文学書ばかりを読んでいましたが、色白で魅力的な娘であったといわれます。夢二とはどこまでの関係であったかは分かってはいませんが、長谷川家では邪険にせず、二人が付き合うことも大目に見たようです。明治43年のことです。
 明治44年に海鹿島を訪れたときに夢二は、賢は鹿児島の家庭教師のところに嫁に行ったと聞かされます。前年7月には「大逆事件」が発覚しています。明治天皇の暗殺を企てたという罪で、幸徳秋水、宮下太吉、菅野(かんの)スガら12名が処刑されました。この事件に関連して夢二も取調べを受けており、その体験が夢二の心に傷として残ったといわれ、傷心を癒すために海鹿島に出かけて、なおさら切なさが募ったのではないでしょうか。
 会津若松市では昭和41年、地元の荒川三郎、越智一男、五十嵐大祐の各氏らが発起人となって「宵待草」の碑が建立されました。銚子海鹿島よりも3年も前です。当初は会津若松市の大川にかかる高田橋のたもと(舟を繋ぐ石があった場所)でしたが、その後に市有地から民有地となったために、東山温泉雨降り滝前、廃止される前の空中ケーブル前に移り、現在の会津東山温泉新瀧前の湯川にかかる新瀧橋の脇に移ったのは平成3年からです。
 夢二の「宵待草」の詩は大正2年発行の絵入小唄集「どんたく」に収録されました。個人としての「お島さん」への恋慕の情ばかりではなく、切ない恋心が詩には込められています。夢二が 4会津に最初に足を踏み入れたのは明治44年3月の半ばのことです。幸徳らへの死刑執行は1月24日に行われており、その後に逃げるようにして東京を離れたのでした。雪が残る大川端を夢二は歩いて「宵待草」の詩心を噛みしめたのではないでしょうか。
 それ以降、大正10年8月と昭和5年6月にも会津を訪れた夢二は、実際に大川で「宵待草」を目にすることになりました。半玉であったトンボとのことも語り草になっています。そのときもまた「お島さん」と同じように、実らぬ恋であったために、後の世に語り伝えられることになったのでしょう。