明治維新のきっかけとなったのは、欧米列強の力が東アジアにまで及んできたからである。外航船の渡来に対してどのように対処するかをめぐって、幕府は朝廷の権威に頼るしかなかった。弘化三(一八四六)年十月、幕府は朝廷に外交報告をすることを決定した。
 その段階で我が国は、国論を統一するにあたって、天皇の名による決定を重んじたのだった。ペリーが来航して開国を迫ったのが嘉永六(一八五三)年であった。幕府の権力の中枢にいた筆頭老中の阿部正弘は対応に苦慮した。ペリーが安政元(一八五四)年一月、再度ペリーが来航し、同年三月には日米和親条約が結ばれ日本は開国をした。
 さらに、幕府はアメリカ総領事のハリスから通商条約の締結を迫られると、大老井伊直弼が朝廷の許可のないままに、安政五(一八五八)年、日米修好通商条約を結んだ。これが治外法権を認め、輸入関税を自由に決定する権利を放棄した不平等なものであったために、徳川の親藩である水戸や公家たちが猛反発をした。
 井伊は安政の大獄と呼ばれた弾圧で乗り切ろうとした。これに憤った水戸などの浪士によって、井伊が暗殺されたのが桜田門外の変である。万延元(一八六〇)年三月三日のことである。
 これ以降の幕府は、それまでの譜代による統治機構が解体の危機に直面し、朝廷との結びつきを強化しようとする公武合体派と、薩長の外様大名をバックにして天皇親政を叫ぶ尊王攘夷派とに色分けされるようになった。
 孝明天皇が公武合体派を支持されたこともあり、一橋慶喜や松平春嶽の要請で文久二(一八六二)年十二月、京都守護職となった会津藩主松平容保は、王城の護衛者として治安に任にあたった。攘夷論の高まりを背景にして、長州は攘夷の断行を主張したが、主導権を奪われまいとする薩摩は、会津と組んで京都から長州と攘夷派公家を一掃した。元治元(一八六四)年七月十九日、禁門の変でも会津と薩摩は御所を占拠しようとした長州を撃退した。
 しかし、薩摩の西郷隆盛らは、幕臣の勝海舟らの助言を受け、旧幕府勢力はほぼ消滅しつつあり、それに取って代わるのは自分たちであると認識するにいたった。武装勢力としての会津が、いかに天皇絶対であるとしても、その上に立つ政治指導者に人材を欠いていては、欧米列強から日本を守ることができないからである。戊辰戦争の悲劇とは、そうした権力闘争の中で生じたのだ。そのことを問題視したのが葦津珍彦であった。
 「さて江戸時代の末期において、政府を構成し得るものは武士階級のほかにはない。武士階級のほかにも、個人的には学識あり才能ある者も存在したとしても、到底政府を構成し得るような実力があるわけではない。しかし同じく武士といっても、徳川系の武士を中心とするか、それとも徳川家を諸侯の地位に格下げして、全国諸侯の連合によって政府を構成するか、あるいは徳川家を排除して、特定の雄藩の武士によって政府を固めるかが問題である。今までのような意味での徳川幕藩体制ではならない。天皇の政府でなければならないという体制理念は公認されても、天皇の下で何者が政府の当路に立つかとの問題は、未だ決定されたわけではない」(『明治維新と東洋の解放』)
 だからこそ、会津と薩長が激突することは避けられなかったのである。会津とて天皇を元首として、近代的統一国家を目指すことには異論はなかった。封建諸藩を解体するというのも念頭に置いていた。だが、会津の力だけでは無理であった。最後の徳川将軍であった慶喜は、会津を切り捨て江戸開城前に白旗を掲げてしまったからだ。
 戊辰戦争は慶応四(一八六八)年一月二日、鳥羽伏見の戦いから、明治二年五月一八日、五稜郭の榎本武揚軍が降伏したときまでを指す。とくに悲劇的であったのは同年八月二十三日、西軍が若松城下に殺到したことである。
 中村哲は「会津藩の主力部隊は越後・下野(しもつけ)方面におり、新政府軍(西軍)の進撃があま
に急速であったために、若松城(鶴ヶ城)に引き上げることができなかった。城下には四〇〇~五〇〇の兵力しかなく、しかも老人、少年が多かった。若松城下はたちまち戦渦につつまれ、多くの藩士の家族が集団自殺をとげた。有名な白虎隊の悲劇もこのような混乱の中で起きたのである。新政府軍は、略奪・暴行を公然と行い、老若男女を殺戮(さつりく)した」(『日本の歴史 明治維新』)と書いている。
 あくまでも会津は権力闘争で敗北しただけである。薩長と考え方に大きな違いはなかったにもかかわらず、薩長史観によって会津は逆賊とされ、マルクス主義的な見方からすれば、会津は封建の世の戻そうとする反動勢力であった。
 しかしながら、それは一方的な決めつけでしかない。会津は藩祖保科正之以来の勤皇の藩であるばかりか、昌平黌に学んだ開明派の人材がそろっていたからだ。敗者となっても尊皇の思いは一貫しており、「会津にも大義があった」ということを知ってもらえるならば、十九士の白虎隊をはじめ、戊辰戦争で犠牲となった会津の人たちの御霊も浮かばれるのではないだろうか。