東京都知事選挙に出馬した石丸伸二候補の応援団は、どんな人間かを確認したのだろうか。清水幾太郎訳の『政治の本質』に収録された、マックス・ヴェーバーの「職業としての政治」によれば、もっとも嫌悪すべき政治家なのである。
安芸高田市長時代に、自分がヘマをしでかしても、その責任を取らずに、市長を選んだ市民のせいにするような人間なのである。いくら京都大学を出て、三菱UFJ銀行に勤めても、そのんな考え方では、世間に通用するわけがない。市民がどうのこうのよりも、その負託にどうこたえるかどうかではないだりうか。その責任をわきに追いやって、市民を小馬鹿にする神経は、まったくもって理解することはできない。
政治はスタンドプレイではない。都内の高校の生徒会長に100万円を配って選挙に利用しようとするのは、あまりにも姑息ではないだろうか。そんなことを口にしても、恬として恥じないのは。あまりにも傲慢ではないだろうか。
ヴェーバーの「職業としての政治」の文章を、石丸候補は読んだことがないのだろう。学歴エリートは、本の題名を暗記し、ただそれだけで読破した気になったのだろう。漫画オタクを自称して、若者の支持を取り付けようとしたが、ひまそら候補の指摘でその嘘がバレ、ネットでは孤立無援になりつつあるのではないか。ヴェーバーは、政治家とはいかにあるべきかを、明確に述べていたのだった。
「政治は、情熱と観察力を併せ持ちつつ、堅い板を力を込めて徐々に穿(うが)って行くことを意味する。この世の中では性懲りもなく何遍でも不可能ごとに手出しをするようなことがなされなされなかったとしたならば、可能なることもたっせいされなかったであろうということは、全く正しく、あらゆる歴史上の経験の証明する所である。だが、それを行い得る人は、指導者でなければならぬ。否、指導者たるのみならず、なおまたー非常に率直な語義においてー英雄でなければならない。指導者でもなく、英雄でもない人々でも、既に現在に於て、あらゆる希望の挫折にも堪えられるような堅固な心を以て武装しなければならぬ。そうでなければ、現在、可能なることを貫徹することさえ出来ないであろう。自分が世間に捧げんとする所のものに対して、世間は(自分の立場から見て、)余りにも愚純であり、あまりにも卑劣である場合にも、それに挫けず、すべてに対して、『それにも拘わらず!』と言い得る革新尾ある人、そういう人だけが、政治に対する『天職』を有するのである」
政治家は口舌の徒であってはならず、目標を達成するためには、リアリストとしての見方と情熱が不可欠である。そして、不可能と言われたことを達成する力量がなければならない。そうした人こそが英雄に価する。幾多の失敗にもめげない強い精神力の持ち主である。自分が良しと思っていることについて、世間の評価が自分から見てあまりにも愚純で卑劣であろうとも、しかし、「そうではない」と信念を貫ける人だけが、本当の意味での政治家なのである。燃えるような情熱と、結果責任を背負う勇気が求められるのだ。
石丸伸二候補のように、自らの過ちを、有権者である市民の責任にするには、政治家としてあるまじき行為なのである。それも分かっていながら、石丸候補に投票を呼びかけるというのは、何か違った魂胆があるのだろうか。不気味なものを感じてならないのは、私だけであろうか。
