竹久夢二と喜多方ということでは、内海久二氏の『夢二ーふくしまの夢二紀行ー』では大正10年と昭和5年の2度訪れたといわれます。アメリカ・ヨーロッパから帰国した夢二が昭和8年10月、喜多方市の知り合いの家を訪ね「酒を飲ませてくれた」という話もありますが、それについては思い違いの可能性も指摘されています。

 夢二がモデルにした会津の女性としては、東山温泉の松吉、久子、半玉のトンボの芸妓衆がいます。このほか、新瀧旅館の2代館主の古川秀幸氏の長女タキさんと芳賀テフさんがいます。夢二を会津で最初に歓待した長尾為治に男子5人がおり、そのうちの鶏二の妻が芳賀家から嫁いできたミツさんです。ミツさんはテフさんの次姉(じし)にあたります。姉に頼まれてお茶を出したテフさんは、夢二と顔を合わせることになったのです。

 東京の弥生竹久夢二美術館には、タキさんとテフさんをモデルにした作品が展示されています。夢二には「北方の冬」という絵がありますが、それが喜多方で描いたものかどうかは分かりません。

 夢二に僕が惹かれるのは、秋山清が「美人画」ではなく「女絵」と呼んだように、ひ弱なもの、抑圧された人たちに寄り添う優しさがあるからです。大逆事件で幸徳秋水や菅野スガが処刑され、その嫌疑で取り調べを受けた夢二が、逃げるように会津にやってきたのです。

 秋山清が夢二について書いた言葉が全てではないでしょうか。女性や虐げられた者たちへ共感を持ち続けたのが夢二であったからです。「女の生活と女ごころを描いて夢二以上の努力を示した画家はいなかった。ということは夢二ほど女を愛し、また女のズルさまでをいとおしんで描くことのできた、気むずかしい情感のリアリストはいなかったということなのであろう。こういうことが私にいえるのは、私は夢二の絵の、わけても女たちのなかに、夢二の生涯のモチーフであった郷愁と羞恥を見るからである。夢二は上を向いた女を描かない。太陽を見上げることをしない。稀に上を向いた時の目はいつも涙の目でしかなかった」(『郷愁論 竹久夢二の世界』)