みちのく人の私には、天忠組の伴林光平(ともばやしみつひら)のような歌を詠むことはできない。貧しい百姓の人々の思いが、天皇陛下への恋闕(れんけつ)と深く結びついたのは、京阪・大和で生きる者の憧れが息づいているからだろう。

 藤原の大宮所あとたえて乙女がともは春田うつなり
 

 村上一郎も「主観の強烈さからいうと、何でも斎藤茂吉以後の東北山村的な鬱屈の『おらび』(叫び)とのみ考えてはなるまいと、わたし自身が東国のものであるがゆえに、心いましめるのである。アララギはよいところはあるが、だからとてこういうさり気ない主観の燃焼は捨てがたい。それは東国人にはむつかしいので、そのむつかしさを思うときに、浮かんでくる歌の、これは一つでもあるといってよい」(『幕末 非命の維新者』)と書いている。
 恋闕とは天皇陛下に恋焦がれることであり、そのパトスの故に維新者として決起できるのである。村上は「そういえばこの人くらい、思想のうえである確かなものを残してゆきながら、一世のイデオローグとはまるで違ったふうに終末した人は少ない」(『同』)と評した。浪漫者は打算とは別な行動原理が働くからだろう。
 光平は文化10年に河内国のお寺の子として生まれた。両親は早くして世を去り、お寺は兄が跡を継ぎ、光平は他の寺の養子に入った。学才があったために西本願寺の学寮に入ったが、25歳で漢学を、ついで27歳で国学を知った。さらに、江戸にまで出かけて伴信友の門を叩いた。
 わずか1年足らずであったとはいえ、信友のすすめで京阪・大和の古陵調査を尊皇心を培うことになった。大阪の古寺の住職となり結婚。二男一女に恵まれたが、檀家が少なく、生活は厳しかった。弘化年間から尊皇志士との交流が始まり、万延元年の井伊斬奸以後に「神州清潔の民」となり、大和親征の先駆たる天忠組に加わった。
 五条代官所襲撃には間に合わなかったとはいえ、50歳を超えた光平は文久3年8月17日の夜には天忠組本営に到着した。しかし、そのときには8・18の政変が起こる寸前であった。翌日には急転直下で賊軍となった。それからは追われる身となり、9月25日には奈良奉行の手に捕らわれた。斬られたのは翌年の2月26日のことである。処刑される前に子に残した歌も悲しく響く。

 父ならぬ父をも父とたのみつつありけるものをあはれ我子や