僕が大学生であった頃は、何とテレビ朝日の人気番組は「題名のない音楽会」であり、黛敏郎のあの独特の語り口は今も耳に残っている。その黛は三島由紀夫の死に衝撃を受けた保守派文化人であった。三島が自刃したかつての陸軍省、陸上自衛隊東部方面総監部は、東京裁判が行われた市ヶ谷軍事法廷であったことに注目した。

 黛は「三島氏が、意識したかしなかったか、それはいまと知る由もないけれど、彼が一身を犠牲にして世に訴えようとしたあの英雄的行為、『生命尊重のみで魂は死んでもよいのか』と叫んだ場は、実に東京裁判のかつての法廷だったのです。そしてこの東京裁判こそ、戦後の日本人の思想を根本から変革し、骨抜きにし、堕落さすぇた最大の犯人であったことを思うと、三島氏がここで練視したことの意味、あるいは暗号を考えずにはいられません」(『題名のない独白』)と書いたのである。

 東京裁判は「平和に対する罪」や「人道に対する罪」によって東条英機ら7人が死刑の判決を受け、絞首刑の執行は昭和23年12月23日、巣鴨拘置所で行われた。この日は明仁親王(現在の上皇陛下)の15歳の誕生日であった。

 弁護人であったブレークニーは「真珠湾攻撃によって、キツド提督はじめ米軍を殺したことが殺人罪ならば原子爆弾の殺人は如何」と反論したのだった。黛は戦勝国のアメリカ人の口から出た言葉に敬意を表し、「東京裁判とは、いま振り返ってみれば勝者の敗者への復讐と、連合軍の占領政策を成功させるための見せしめに他ならなかったことがハッキリしているけれども、その中に、こうした正義の主張が少なくとも行われていたことを知ったのは、一服の清涼剤の感があったのです」(『同』)と評価した。
 アジアへの欧米の歴史を不問にし、日本だけを悪者にした歴史観への異議申し立ては、黛らの保守派文化人にとっては共通の認識であった。そして、黛は清水幾太郎が『戦後を疑う』と『日本よ国家たれー核の選択』という2冊の本を推奨した。
 黛は清水が60年安保で反体制側に回ったことに関しても「日本がアメリカのエゴイズムのとばっちりを受けて、社会主義陣営から袋叩きになれることを感じられたからであり」と理解を示した。

 さらに、黛は「私は、清水幾太郎という人は真のリベラリストであり、かつ民族主義者だと思います。氏は、アメリカもソ連も、どちらも我慢がならないのです。どちらにも隷属しない、真の日本の独立こそ氏の悲願であり、その実現のために、現実的に経済力に見合った軍事力が絶対不可欠であり、精神的には占領憲法の改正がどうしても必要だと云われているのです」とも述べた。

 ブンド(共産主義者同盟)の良き理解者であった清水は、門下の香山健一らとともに、保守派に転じて、日本を守り抜く立場に転じた。西部邁もそこに合流したのだった。黛の声はユーチューブでも聞くことができる。ようやく日本が自立に向けた一歩を踏み出そうとしており、東京裁判の欺瞞を暴き、国家としての主権を回復するためにも、黛や清水の主張をもう一度噛みしめなくてはならないのである。