新興政党の登場は社会現象として注目されなくてはならない。れいわ新選組、参政党、N党などがそれに属するが、台風の眼になりそうなのが日本保守党である。小選挙区の多くで候補者を擁立するようになれば、保守票が分裂することになり、当選が難しくなる自民党候補者が続出するはずだ。自民党票の1割が動いても、大変な地殻変動を起こし、日本の政治はガラリと変わってしまうのである。
 日本保守党というのはネットで有名になった人たちが中心である。当初はDHCがスポンサーになった「虎ノ門ニュース」が出発点であった。情報番組としてスタートしたが、保守色が強く、反左翼、反予想以上の高視聴率となったのには、それなりの理由があった。マスコミの多くが、左翼かリベラルの側であったために、それに対抗する側の媒体が少なかったからである。それらへの対抗ということで存在意義があった。マスコミの自己規制が行われていて、報道しない自由が大手を振っていたからだ。
 この20年ほどで保守派の言論の発表の場であった文藝春秋などの論調が様変わりした。週刊新潮や週刊文春もその点は同じであった。数では圧倒的に多い保守派は、何を信じていいかわ分からなくなった。そこでネットが、保守派の意見発表の場となったのである。その頃から「ネトウヨ」という言葉が、ぼつぼつ使われるようになった。
 それまでの週刊新潮や週刊文春の役割を、ネットが担うようになってきたのだ。行動する保守運動が一時期、脚光を浴びたこともある。口に出したくても、口に出すことはできない思いを、彼らが代弁してくれるというので、心の中で拍手を送った日本国民は多かったと思う。だからこそ、ネットの活用が上手であったN党や参政党が国会に議席を持つことができたのだ。
 日本保守党は昨年10月に結党したが、党員数は6万人を超えている。去る4月28日、投開票で行われた、衆議院東京15区の補選では、敗れたとはいえ、中東研究家の飯山陽さんを擁立した。敗れたとはいえ、約2万4千票を獲得したのだった。
 岩盤保守層から期待されての出発であった。しかし、百田尚樹氏と有本香氏が出した『日本保守党』を開いてビックリしたのは、対談本の部類であったことだ。コピーも「人は誰のために生きるのか。愛する日本を守りたい?」である。書いてあることも、ネットで喋ったようなことだけ。思想的な品格もまったく感じられない。これでは誰も付いていけない。核政策についても、評論家のような言い方に終始しており、明確なことは一つも述べていない。
 さらに、不思議なのは、党員でもない識者に応援のメッセージを書いてもらっていることだ。それではあまりにも薄っぺら過ぎる。それでも党員になる人がいるのは、何に期待しているのだろうか。疑問を抱かざるを得なかった。
 百田氏の『日本国紀』にしても、手際よくまとめられてはいるが、歴史を少しでも学んだ人たちからは、顰蹙を買っている。参考文献も明示されず、「万世一系」を口にする割りには、継体天皇から別な王朝が始まったかのような書き方をしている。
 テレビマンとして生きてきた百田氏は、要領よくまとめるコツは心得ていても、オリジナルなものに生み出す作家とは別である。中途半端だからこそ政治に口を出すようになったのだろうか。

 今の日本保守党を見ていて気にかかるのは、その程度のレベルでも、必死になって擁護する人がいるという現実だ。それはまさしく、ハンナ・アレントの主張を裏付けており、全体主義を待望する意識が、日本国民の中に芽生えつつあるということだろう。
 アレントは「全体主義運動は、一貫性の虚偽の世界をつくり出す。その虚偽の世界は現実の世界そのものより人間的心情の要求に適っている。そのなかで根無し草の大衆は、全くの想像力を助けにしてくつろいだように感じ、現実の生活と現実の経験が人間と人間との期待に加える決して終わることのない衝撃から免れることができた」(『全体主義の起源』寺島俊穂訳)と書いている。

 根無し草であるということは、まさしく「見捨てられている」ということを意味する。川崎修は『ハンナ・アレント』において、ハレントが用いる「見捨てられている」ということと、「孤独」との違いを論じている。自分の中における他者性の喪失が、どれほど深刻であるかに言及しているのだ。

「彼女によれば、『見捨てられていること』と孤独とは同じではない。孤独は『思考』の場面では正常な経験であり、そして実は、このもう一人の私とは、現実に存在している他者を内面化したものにほかならない。したがって、孤独における自己自身との対話において、人は、すでに他の人々と語り合っている。語り合いうる他者を経験も前提もせずには、そうした対話は成り立たないというのである」との見方をする。
 これに対して「見捨てられていること」というのは、アレントによれば「人は他者や世界から見捨てられるとともに、私の存在を確証してくれていた他者を失うことで、自分自身からも見捨てられる。かくして、世界のリアリティと思考のパートナーを両方とも失ってしまい、人は経験と思考の両方の能力を喪失するのである」と手際よく分析をした。

 それがもっとも重要なのである。嘘であっても信じたいという思いが先に立ってしまうのである。有本氏や百田氏が事実にもとづかないことを述べても、それを信用したいのである。事実よりも、その場の雰囲気で語った言葉を真実と勘違いするのだ。私たちが危機感を持つべきは、プロパガンダにも値しないことでも、犬笛に引き回される人たちがいることなのである。
 しかし、日本保守党が真の意味での全体主義政党であったならば、つばさの党の選挙妨害に対して、スクラムを組んで押し返し、自分たちの強さと偉大さを誇っただろう。
 そこまでできなかったのは、資金が底をつくことを恐れたのだろう。ビジネス保守といわれる所以である。それが限界なのだろう。日本保守党支持者の勢いがなくなっている。保守派のなかでも、日本保守党に与しないことを、公然と口にする人たちが出て来た。
 権威失墜現象が顕著になってきたのだ。まずは蟻の一穴であっても、あっという間に広がって、大きなダムが決壊するのである。仲間割れも始まっているようだ。
 党の活動よりも、ユーチューバーとして、どれだけ稼ぐかが関心の的になってしまっている。その程度の人間たちに騙されるのは限られてた人たちかもしれないが、民主主義に挑戦する者たちの胎動は、すでに始まっているのである。
 国末憲人の「私たちは何か、大きな勘違いをしていたのではないか。私たちは、民主主義を今後も享受し続けると、めでたく信じていた。しかし、民主主義社会が色褪せた後にやってくるものをいま、おぼろげながら想像するのは可能だ。『民衆なき民主主義』のなかで温々(ぬくぬく)と過してきたエリートたちの化けの皮がはがれたとき、『民主主義なき民衆』がよりどころとするのはポピュリストだ。ポピュリストたちは民衆の立場に立ち、民衆のための政治をしてくれるように、一見思える。しかし、ポピュリストらは人々の耳に心地よいことをささやくばかりではないあ。民衆を利用しようと企てる。その結果、ポピュリストの言動に多くの人が振り回される、大いなる愚民社会が到来するのではないだろうか」(『ポピュリズムに蝕まれるフランス』)との見方を示した。
 昨年4月まで朝日新聞社論説委員であった国末は、今年1月からは東京大学先端科学技術研究センター 特任教授に就任している。20年近く前に世に出た本だが、フランスでの出来事が、日本でも顕在化しつつあるのだ。

 今私たちがすべきは、自分の中にある他者性を回復し、世界との通路を再構築をすることではないだろうか。そのためには、イデオロギー的な決めつけから脱却し、常識的なコモンセンスを取り戻さなくてはならないのである。有本香氏が主張しているように、日本保守党が共産党や公明党のような政党を目指すというのは、まさしくそれに逆行し、全体主義の脇道にそれてしまうことにほかならない。そんなであればくわばらくわばらである。