西部邁は会津が好きだった。初対面は西部さんが会津若松で講演することになり、東北新幹線の郡山駅に迎えに行ったときだ。驚いたのは、背が小さい人だということと、車に乗るなり「戦雲暗く」と「白虎隊」を歌い出したことである。

 誰に対しても、ずけずけと臆せず質問してしまう私は、西部さんに田中清玄(右翼の大物で会津人の血を引く)との関係を尋ねr付き合いがあったことを率直に認めた。全学連主流派のブンドが、田中から金銭的に面倒を見てもらったというのは、知る人ぞ知るであったから、隠し立てする必要もなかったのだろう。

 そして、中核派とのことも、遠回しに質問した。これに対して「中核だけは俺を攻撃しないから」とポツリとつぶやいた。

 ブンドの全学連主流派の時代から、西部さんと清水丈夫が仲が良かったというのは、西部さん自身が『六〇年安保ーセンチメンタル・ジャニー』でも触れている。清水は現在も中核派の最高幹部であり、内ゲバで殺し合いをした革マルからは「シミタケ」と呼ばれて憎悪の的であった。

 西部さんは「全共闘の左翼運動にたいして、理論的にはいささかも与することができなかったにもかかわらず、心情的には闇雲に同情するところがあった。唐牛(全学連主流派の委員長)が中核派の幹部に軍事委員長をやらせろと申し込んでいる場に同席したときも、その心情の流れ方は理解できる気がしたのである。私自身も、その幹部が疲労困憊しているというので、箱根に連れていったりした。しかし、二人で温泉に首までつかっているとき、中核派への加入を真剣に誘われ、それにはさすがに興ざめの気分であった」(『学者ーこの喜劇的なるもの』)と書いている。

 その幹部はもしかすると、清水ではなかったか。そして、西部が「興ざめの気分であった」というのと、「心情的には闇雲に同情するところがあった」という文章は、あまりにも辻褄が合わない。ある時期まで西部さんは政治的な死を望んだことがあったのではないだろうか。

 西部さんは、私の知り限りでは会津に3回は訪れたと思う。その度に話す機会があったわけだから、今となればその辺のことを聞いてみたかった。

 自ら命を絶ってからすでに5年以上が経過したが、私は西部さんが転向したとは思わない。反米ということでは一貫しており、晩年には核武装を説いていた保守思想家としての西部邁と、60年安保闘争でアジっている若き日の西部さんは同一の人間であり、それこそ私とは心情において一致するからである。