ファシズムやナチズムを侮ってはならない。とくに家族やモラルが崩壊しつつあり、人々は行き場を失いつつあるからである。全体主義を支持するのは、没落した中産階級であり、左翼を名乗ったことのある労働者である。唯一抵抗するのは、穏健な保守派だけである。

 エーリッヒ・フロムが「ドイツの労働者の大部分は、ヒットラーが勢力を獲得するまでは、社会主義あるいは共産主義の政党に投票し、これらの思想を信じていた。すなわち、労働者階級のあいだにおけるこれらの思想の広さは、非常に広範なものであった。しかし、これらの思想の重さは、その広さにくらべ、まったく問題にならなかった。ナチズムが攻撃を開始したとき、政治的な敵対者と衝突することはなかった。敵対者の大部分はナチの思想のために戦った」(『自由からの闘争』日高六郎訳)と指摘している。

 なぜそうなったかについて、フロムはヒットラーの『わが闘争』の一文を引き合いに出す。「弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じる」からなのである。

 それこそ、ドストエフスキーの「大審問官」の世界である。人間は自由に耐えることができず、何者かにすがりたくなってしまうのだ。ネットでもよく信者という言葉が使われるが、信じさせられるのではなく、信じたいから付いていくのである。

 左右を問わず、全体主義が大きな運動になるのを阻止するには、国柄としての日本を守り抜かなければならない。家族やモラルの再建を目指さなくてはならない。それ以上に信者になるようなことがあってはならないのである。