日本浪漫派の保田與重郎の『日本浪漫派の時代』は、とんでもない長編の詩のように思えてならない。純粋無垢な魂の発露であり、傷つきやさしい繊細な精神が綴られている。

 保田は「吾々の時代には、なほ美しい情緒が若者の生活の中にもあった。人々は清純な気分を求めた。欲望を乱暴によってごまかす代りに、それを霊的なものに純化する方法、泪(なみだ)の詩によって洗ふという方法が一般にあった。これだけでは人間の底辺の条件である。また文明文化の第一歩をなすものであり、文学の地面である」と書いたのである。

 その言葉が出てくる根拠が示されるわけではないのに、なぜか身に沁みてならない。それは日本人に流れている基底音であり、それが奏でている旋律を耳にできるかどうかが、日本人であるかどうかの分かれ目なのだろう。

 老いてなお若き日の自分を語るに際して、保田は一点の曇りもない。「日本浪漫派時代は、わが青春の前期であった。その時、我々には多少の志を、このほどの東洋によせるものがあった。そのころが良い時代だといはれるのは、青年が憧憬という心のはたらきを知つてゐた」からなのである。

 日本人の息づく独得の宗教についても「元来わが神々の国の状態は、清く、爽かで、美しく、たのしい、といったことば以外に殆ど表現を必要としないのである。我々はさういふ世界を、自然の風景に、人の心の風情に、文学や美術の造形に、実感することが出来るのである」といわれると、それだけで納得してしまうのではないか。

 政治的ロマン主義として、機会原因的に何もかも自分たちにいいように解釈するという批判がある。しかし、それは本質を見ていない。日本人を駆り立てる力は、賢しらな論理ではなく、過去から受け継がれた美意識なのである。

 だからこそ、保田を始めとして、多くの日本浪漫派の作家たちが、一時期はマルクス主義に同調しながらも、そこから背を向けざるを得なかったのだ。「日本浪漫派のころのスターリンの大粛清は、ソヴェート革命の功労者で、昨日までは国際共産主義の偉大な指導者として奉戴(ほうたい)してきた国際的知名人を次々に殺し、その数を知らなかった。この粛清の影響は、日本の若者に甚大の影響を与へた。心を革命の動向に傾けてゐたものに、一層深刻な影響を与へた。動揺といつてよい深刻さがあった」と述懐している。

 開戦の日の十二月八日にしても、保田は「その夜の夕刊で、二重橋のまへに土下座して聖寿万歳を祈つてゐる年老いた女たちの写真を見た時、私は泣いた。いつまでたつても止まらなく涙があふれた。たゞ涙が出るのでない。私は生まれて初めて泣いた。それが何であつたか、私にはわからなかった。今もわからない」と正直に語る保田は、すでに敗れるべき運命を甘受していたのだろう。

 わが国に迫りつつある危機に対して、心の準備をすることは難しい。保田にように日本人の美意識に立脚して、どこまで抵抗できるかなのである。嘘汚れた対米対中追随ではなく、日本人が日本人であることが求められるのである。